Sarah Vaughan
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Sarah Vaughan (サラ・ヴォーン) プロフィール

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サラ・ルイ・ヴォーンは、ギターを弾きフォークソングを歌う大工の父と、洗濯を仕事にして、教会でピアノを弾いて歌っていた母の間に、1924年ニュージャ−ジー州ニューアークに生まれた。サラは既に12歳の頃にはオルガンを弾き歌い始めていて、アマチュア・コンテストに出演していた。1943年10月、19歳のときには、現在もお馴染みのアポロ・シアターの“アマチュア・ナイト”に出演して優勝している。エラ・フィッツジェラルドに遅れること9年のことである。彼女の歌を聴いていたビリー・エクスタインに推薦されたサラは、アール・ハインズのオーケストラに「セカンド・ピアノ(!?)」として入団する。

まもなくエクスタインは、自分のバンドを結成する為にハインズのもとを辞し、今度はサラを自分のバンドに入団させる、そこにはジャズの未来を担うチャーリー・パーカー、ディジー・ギレスピー、マイルス・デイヴィス、アート・ブレイキーらがキラ星のごとく並んでいた。サラにとって時代の転換期に最先端に位置するこのバンドにいた経験は大きなことだった。初期の彼女の作品のバックを務めた彼らの影響は大きかった。

 1944年、「Continental」,1945年、「Musicraft」の各レーベルにレコーディングをし、続いて1947年には“タウンホール”に出演、レスター・ヤングらと共演した。この時の歌は現在『One Night Stand:Town Hall Concert』として聴くことができる。

1949年サラはColumbiaと契約、後にマネージャーで夫となるジョージ・トレッドウェルのバンドとの録音は、『サラ・ボーン・ハイファイ』として聴くことができる。マイルス・デイビスが珍しくも歌伴として参加したこの作品は、サラの初期歌の典型が聴ける作品だ。

1954年、サラにとって運命的となるマーキュリー・レーコードと契約、ジャズ専門レーベルで姉妹レーベルのエマーシー・レコードとの両輪で活躍を始める。実際にはレコーディングされた中からポピュラリティのあるものがマーキュリーから、よりコンセプチュアルなものがエマーシーから発売された。この当時のレコーディングはいづれも「外れなし」の素晴らしさで、サラの第1期黄金時代を感じさせる歌が詰まっている。

中でも『ウィズ・クリフォード・ブラウン』『イン・ザ・ランド・オブ・ハイファイ』、そして、カウント・ベイシー・オーケストラとの共演盤『ノー・カウント・サラ』などがジャズ・ファンの大きな支持を得た。日本で編集されたエマーシー・レーベルへの『コンプリート・レコーディング集』はサラの軌跡を改めて認識させる企画だった。そのほかコンポーザー物として、恩師ビリー・エクスタインを迎え録音された『サラ・ヴォーン&ビリー・エクスタイン/アーヴィン・バーリン・ソングブック』がある。スピード感溢れる曲からバラード曲まで全ての速度で完璧な歌を聴かせるサラがここにいた。

 1959年、彼女の夫と、夫がアレンジしたマーキュリー・レコードとの契約から別離したサラは、新天地を求めて1960年ルーレット・レコードと契約、再婚したサラは再び新しい夫をマネージャーとして押し立ててている。サラの男勝りの正確の面目躍如の面を伝えるエピソードである。

  その後、夫との二度目の離婚など問題を抱えたサラだが、コンボをバックにスインギーに歌う『アフター・アワーズ』とベニー・カーターのオーケストオーケストラで録音された、静と動の2枚の対照的なアルバム『The Explosive Side Of』『Lonely Hours』がこの時期の印象的な作品だ。

   1963年、再びマーキュリー・レーベルに戻ったサラは、クインシー・ジョーンズとのコラボレイションを開始する。『サッシー・スイングス・ザ・ティヴォリ』はコンボをバックにしたサラの持ち味が出たライブの傑作だ。クインシー一流のプロデュースによって、ラテン、ヘンリー・マンシーニ、ポップス、ヒットチューンなどに題材を求めた企画物で窮地を乗り越えようとしたが、時代の流れには逆らえなかった。

時代はビートルズが台頭するポップスの時代に流れていた。この当時の録音でサラにとって、いまもで最もポピュラーナ作品として聴かれ続けているのが、「ラヴァース・コンチェルト」である。TVCFにも何度も使用され、サラの日本における永遠のヒットとなった。

 その後サラは、Mainstreamレーベルと契約、7枚のアルバムを残す。中では弾き語りで歌う珍しい姿が記録された『イン・ジャパン1973』、ミシェル・ルグランと共演した『ウィズ・ミシェル・ルグラン』が印象に残る。

 そして、1977年夏のロンドンのジャズクラブ“ロニー・スコット・クラブ“でのライブ盤2枚を残して、ノーマン・グランツが運営するPabloレーベルに移籍、再びカウント・ベイシーに見えた。声量は留まることを知らぬほど広がり、いまやヴァーチュオーソとしての風格を見せ始めたサラのこの時期にあって、ミルトン・ナシメントとの出会いは彼女を新しい局面に引き出した。

『O Som Brasirleiro de Sarah Vaughan』『Copacabana』の2枚は、この時期のサラの新しい持ち味を代表する。また、一方グランツらしい企画で制作されたオスカー・ピーターソンとの共演盤や、コンボをバックにした2枚のエリントン作品集など『王道物』も忘れられない。

ジョー・パス、ローランド・ハナをバックに歌った『Crazy& Mixed Up〜枯葉』、LAフィルと共演、意外にも彼女にとっての唯一のグラミー賞受賞アルバムとなった『ガーシュイン・ライブ』などこれからの新しい展開が期待された。

そして、1987年にブラジルの音楽家たちの作品を歌った『ブラジリアン・ロマンス』を録音したが、来日を控えた1990年4月3日、サラは永遠の旅に旅立ってしまった。

 抜群の声量と暖かい歌声、様々な分野の歌を全て自分のものにしてしまう懐の深さを持った不世出の歌手サラ・ヴォーンは、これからも永久に聴く者に語り掛けるだろう。

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