R.E.M.
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R.E.M. (アールイーエム) プロフィール

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メジャーで活動を展開しながらもオルタナティヴな、独立したバンド活動を守り抜き通すようなことは可能だろうか?中・後期ビートルズ以来、幾つものバンドが抱えたであろう、このようなアーティスティックな部分と商業音楽の性質との間にある埋められないギャップ。このような古典的な命題は今だ解決されることがない...というよりもこのジレンマは改善はされこそすれ、なくなる性質のものではなく、商業ポップ音楽が続いていく限り付随してくる問題ではある。本稿の主役R.E.M.は80年代後期のメジャー移籍から90年代、そして現在に至るまで、そうした解決されない命題と関係しながら、ひとつの理想像ともいえるバンドのあり方を示したバンドである。それはレディオヘッドのトム・ヨークやニルヴァーナの故・カート・コバーンなど、同じくメジャー化されたオルタナティヴ・フィールドで闘っていくアーティスト達に多くの希望を与えたことが証明している。

売れているもの=かっこ悪いもの、という80年代を経て、90年代のオルタナ・バンド達には意識の変化が生じた。その影で暗躍したのがR.E.M.だったということも言えるかもしれない。世界最大のカルト・バンドだったドキュメントまでのR.E.M.は、その後メジャーのワーナーと契約し、「転向」を経ることなく(自分達らしいスタイル、アティチュードを崩すことなく)素晴らしい音楽を作り続けている。

1980年春、ジョージア州アセンズでR.E.M.は結成された。昼は中古レコード店に勤めながら夜はジョージア大学アセンズ校に通っていたピーター・バック(g/1956年12月6日生)が、同じくアセンズ校で美術を専攻し、彼の勤めるレコード屋に通っていた友人マイケル・スタイプ(vo/1960年1月4日生)を誘ったのがきっかけだった。そこにマイク・ミルズ(b/1958年12月17日生)とビル・ベイリー(ds/1958年7月31日生)が加わりバンドは4人組となる。マイク・ミルズとビル・ベイリーはそれ以前にも同じバンドに属しており、バーやレストランなどで演奏するいわゆる「ハコバン」に居た。そこではレイナード・スキナード・タイプの南部ロックなども演奏していたという。バンドの初めての演奏場所は、マイケル・スタイプが住みついていた、使われていない古い教会で友人を集めて行われるパーティの席だった、というよりもこのパーティのためにバンドを組んだようなところがあった。バンドはモンキーズの“ステッピン・ストーン”や“ルート66”など「ヒップではない」オールディーズを演奏したが、それが逆に観客にウケ、会場は熱狂に包まれたという。この時点でバンド名は決まっていなかったが、やがて睡眠中の眼球の動きを意味するRapid Eye MovementからとられたR.E.M.という名前となった。

R.E.M.はもともと趣味的なバンドとして始まったが、周りの友人達からの評判が高かったこともあり、地元周辺のクラブを中心にライヴ活動を開始した。そして1981年7月、Hib-Toneなるローカル・レーベルから“レディオ・フリー・ヨーロッパ”を発表。これは地元の音楽シーンで活躍していたミッチ・イースターのドライヴ・イン・スタジオで録音されたが、のちのちまで彼らはドライヴ・イン・スタジオで録音を続けることになる。このシングルはNYの音楽誌「トゥギャザー・プレス」の1982年度米アンダーグラウンド・ベスト10や「ニュー・ヨーク・タイムズ」紙の1981年度ベスト・シングル候補に選出されるなど、いきなり高い評価を受けた。そんな中、REMはポリスのドラマー、スチュアート・コープランドの兄弟、マイルスが経営する新興のIRSレコードと契約を交わす。同年8月にミニ・アルバム クロニック・タウン(Chronic Town)をIRSから発表。この作品も学生達から圧倒的な支持を受け、R.E.M.は瞬く間にカレッジ系のリスナーの間で人気者となっていった。そして1983年春、デビュー・アルバム マーマー(Murmur) を発表。これが各方面で絶賛を浴びる。「ローリング・ストーン」誌ではマイケル・ジャクソンスリラーをおさえ、年間最優秀アルバムにまで選出されるほどだった。またセールス的にも結果的に新人としては異例の17万枚を売り上げる成功を収めた。

1984年春、セカンド・アルバム 夢の肖像(Reckoning)発表。これはエルヴィス・コステロが絶賛したという作品で、またこの作品を気に入ったウォーレン・ジヴォンは自らR.E.M.に共演のオファーを申し出たという。1985年6月、サード・アルバム 玉手箱(Fables Of Reconstruction…)を発表。R.E.M.はカレッジ・ツアーとともに、U2のヨーロッパ・ツアーの前座も務め、アメリカのみならずイギリス、ヨーロッパでの人気も高めていった。またこの頃初来日も果たしている。当時のR.E.M.はピーター・バックのアルペジオを絡めたギター(本人曰くギター・ソロは嫌いで弾くこともできなかったという)を中心としたモダンなフォーク・ロック〜サイケデリック的なギター・サウンドが売りだった。またマイケル・スタイプの英語のネイティヴ・スピーカーでも聞き取れないというモコモコとして不明瞭だが独自の質感を持ったヴォーカルが楽曲の神秘性を高めていた。

R.E.M.のサウンドに大きな変化が生じたのは1986年9月の4作目 ライフス・リッチ・ページェント(Life's Rich Pageant)でのこと。ジョン(クーガー)メレンキャンプなどを手掛けるドン・ゲーマンを迎え、聴き取り可能なヴォーカルと明確な輪郭を持ったサウンドを全面に出した彼らはここで大きなステップ・アップを果たした。初期の名曲“フォール・オン・ミー”はここに収録されている。この後もCMJ〜カレッジ・ミュージック・シーンを中心に人気を高めていったREMは1987年に5作目 ドキュメント(Document) を発表。ここではプロデューサーにスコット・リットを迎え前作にも増して力強いサウンドとスタイプの強いメッセージ性がクローズ・アップされた。

80年代アメリカで最大級のカルト・バンドとなったR.E.M.が大きな岐路に立ったのは1988年頃のこと。各大手レコード会社からの引き合いがR.E.M.に集中したが、結局1988年暮れにワーナー・ブラザースへの移籍が正式決定。契約金は何と破格の600万ドルというものだった(この陰には今まで彼らを支えてきたIRSとの訴訟問題にまで発展するトラブルもあった)。1989年に入るといよいよメジャー第一作 グリーン(Green) を発表。これは精力的なツアーもあって(来日もあった)大ヒットとなったが、R.E.M.の姿勢そのものには変化がなく、彼らはメジャー・フィールドでも自らのアーティスト・ポリシーが貫き通せることを証明した。この後R.E.M.はワーナーからアルバムを発表し続けており、そのオリジナル作品を年代順に並べると…1991年アウト・オブ・タイム(Out Of Time)(長期に渡る「グリーン・ツアー」 の反動でアコースティックな内容となった)、1992年 オートマティック・フォー・ザ・ピープル(Automatic For The People) 、1994年 モンスター(Monstar) (故・カート・コバーンへの想いも感じられる重く激しい音像が印象的)、1996年 ニュー・アドヴェンチャーズ・イン・ハイ・ファイ(New Adventures In Hi-Fi) 、1998年 アップ(Up) 、2001年リヴィール(Reveal) …となる。またこの期間にバンドに大きな転換期があったことにも触れなければならないだろう。1997年にビル・ベイリーがバンドを脱退(  アップ(Up) からは3人組として活動している)。共同体のようなバンドとして知られていたR.E.M.にとってこれは大きな出来事だったが、ベイリー脱退後、残された三人の結束は更に強まりバンドとしては問題ないという話が伝わってきている。また前述のオリジナル作のほか編集盤には クロニック・タウン (Chronic Town)収録曲含むレア音源集 デッド・レター・オフィス(Dead Letter Office) 、ワーナー移籍直前にリリースされたIRS時代のベスト エポニマス(Eponimus) 、1991年、当時のREM人気に便乗してIRSが出したベスト ベスト・オブ・REM(Best Of REM)や1994年のシングル・コレクション(Single Collection)などがある。またR.E.M.メンバーのサイド・プロジェクトやプロデュース作などにはスペースがなく触れられなかったが、代表的なものとしてウォーレン・ジヴォンとバック、ミルズ、ベイリーによるヒンドゥ・ラヴ・ゴッズをここでは挙げておこう。 そして2003年10月、ワーナー移籍から15年の月日を経て同レーベル時代に放ったヒット曲/代表曲を網羅したベスト・アルバムIn Time: The Best Of R.e.m. 1988-2003がリリースされる。

ビル・ベイリー脱退により3人組となったR.E.M.。しかしながら、バンドに関係するスタッフなど彼ら周辺はかつての共同体的な結束を守ったままであるとも伝え聞く。そうした地盤がある限り、変化を遂げつつもR.E.M.本来の持ち味は継承されるだろう。またもはやロック・セレヴリティのひとりとなったマイケル・スタイプに対して、同業のミュージシャン達のインタビューなどで悪口が聞かれることがある。ただ、マイケル・スタイプのエキセントリックなカリスマ性や日常における演劇性は、それだけで非難される筋合いのものではないし、言うまでもないことだが、そうしたことは彼らの音楽とは無関係である。とっつきにくいのはR.E.M.のメンバーも同じことであって、他のメンバーはスタイプと別のバスで移動したりするらしい。スタイプが人に伝える、という点を重視したシンガー、パフォーマーとして本格的に目覚めたのは、おそらく何を歌っているのかがわかるようになった ライフズ・リッチ〜の頃からだろうが、スタイプはもともとバンドに入る以前一年間外出しなかった、とか友人は二人のお姉さんだけだったとかいうようなエピソードを持つ内向的な人間だ。そのスタイプの、覚悟を決め「飛躍」を果たした後の姿から発せられた言葉やパフォーマンスの素晴らしさはここで言うまでもないし、それと個人的な振る舞いは分けて考えられるべきだ、と思う(余りにも聖人君子的、清潔なイメージが彼らにあることは否定しようがないが)。話がそれたが、マイケル・スタイプは稀代のシンガー〜パフォーマーであり、R.E.M.は今後もオルタナティヴを志すバンド達に大きな勇気を与え続けていくことと思う、ということだけは最後に印したい。

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