Pink Floyd
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Pink Floyd (ピンク・フロイド) プロフィール

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ピンク・フロイドといえばキング・クリムゾンイエスジェネシスEL&Pなどと並んでUKプログレッシヴ・ロックの黄金期を築いたバンドであることはいうまでもないが、最近ならばレディオヘッドなどに代表されるどこか陰鬱な部分を持ったUKロックバンドを例える際に、必ずといっていいほど名前が用いられるのもまたピンク・フロイドである。

’64年の暮れピンク・フロイドの母体であるシグマ6が結成される。メンバーはロジャー・ウォータース(g後にb)、ニック・メイソン(ds)、リック・ライト(key)の3人にクライヴ・メトカーフ(b)、キース・ノーブル(vo)、そして後にリック・ライト夫人となるジュリエット・ゲイル(vo)の6人である。何とかバンド名を変えながら活動を続けてはいたが、当時まだロンドンのリージェント・ストリート建築工芸学校の学生だったこともありまだまだ趣味の域を越えていなかった。しかし’65年の秋ロジャー・ウォータースの友人でキャンバーウェル・アートスクールに通っていたシド・バレット(g,vo)とボブ・クローズ(g)が参加し、5人編成でピンク・フロイド・サウンドと名乗るようになってから、ようやくクラブやパブに出演するようになる。当初はブルースやR&Bのカヴァーが主体だったが、やがてコード進行のみ決めて即興演奏を始めるようになり、新しいサウンドを模索し始める。こうした方向性に合わなかったボブ・クローズが脱退、4人編成となった彼らはバンド名を短くピンク・フロイドと改めた。

ピンク・フロイドシド・バレットが書く曲に比重を置くようになり、やがてUFOクラブでのライトショーやフィルムを使ったサイケデリックなステージが話題となり、’67年2月にEMIと契約、3月にはデビュー・シングル”アーノルド・レイン”をリリースした。この曲は歌詞が猥褻であることからBBCで放送禁止となるが、全英チャートで20位とまずまずのヒットを記録、6月リリースの2枚目のシングル”シー・エミリー・プレイ”は全英6位のヒットとなり、8月にはデビュー・アルバム 夜明けの口笛吹き がリリースされた。全英6位まで上がるヒット作となったこのアルバムは、ほぼシド・バレットの曲でかためられ、後にロジャー・ウォータースが語った「シド以外のメンバーは誰でもよかった」というようにこの頃のピンク・フロイドは完全にシドのワンマン・バンドだった。

しかしながらこうしたチャートでの成功でポップ・スターとして注目を浴びることにより、シドが精神のバランスを崩してしまう。ドラッグに深入りし、奇行が目立つようになり、見かねたマネージャーがシドの旧友であるデイヴ・ギルモア(g)を加入させる。5人編成となりライヴも数回行われたが、結局シドの状態は悪化する一方で、’68年3月正式にシドの脱退が発表された。新たに4人編成となったピンク・フロイドは同年6月にシド参加曲3曲を含むセカンド・アルバム 神秘 をリリース。シド在籍時の歌詞中心のものからより空想的なサウンドを中心としたものへと変化しつつあったが、結局神秘 は全英9位まで上昇し、メンバーはシド抜きでもやっていける自信をつけた。

’69年にはバルベ・シュローダー監督の映画のサウンドトラック モア 、アナログA,B面がライヴでC,D面がスタジオ録音しかも各メンバーがそれぞれリーダーシップをとった楽曲を入れた実験色の濃い2枚組大作 ウマグマ 、’70年にはミケランジェロ・アントニオーニ監督の 砂丘 のサウンドトラックを担当するなど、他のバンドとは一線を画すような作品のリリースが続いたが、’70年10月ロックとシンフォニーを融合させた歴史的な名盤として評価の高い 原子心母 をリリース。全英1位、全米55位のヒット作となりピンク・フロイドの名は一気に世界へと広まった。

’71年23分半の大作”エコーズ”を含む おせっかい 、’72年『モア のバルベ・ジュローダー監督の新作 「ラ・ヴァレ」のサウンドトラック 雲の影 と順調にリリースを続ける中、’73年3月ピンク・フロイド初のトータル・アルバム 狂気 をリリース。全英2位、全米1位となった本作は全米では以降’88年までの15年間(724週)アルバム・トップ200にランクインされるという驚異的なセールスを記録。リリースに合わせて行われた英米での機材総重量12トンというツアーも絶賛を浴び、ピンク・フロイドはスタジアム・バンドへの道を歩み始めた。

‘75年狂気 の次回作ということで期待の高まる中リリースされた は、ロジャー・ウォータースシド・バレットに自分の姿を重ね合わせたスピリチュアルな内容だったが、それでも英米でNo.1を獲得し、フロイド神話は健在だった。’77年の アニマルズ 、’79年 ザ・ウォール はかつてのスケール感あるサウンドは陰をひそめ、より社会批判、文明批判的な要素が強まり、ピンク・フロイドはメッセージ性を重視したロジャー・ウォータース主導のバンドへと変化していく。こうした方向性から’82年リック・ライトが脱退、’83年メンバーが後に実質的にロジャー・ウォータースのソロ・アルバムだったと認める ファイナル・カット をリリースし、ピンク・フロイドは一時的に解散する。

各メンバーはソロ・アルバムをリリースするなどの活動を続けていたが、’85年デイヴ・ギルモアが再結成を呼びかける。脱退したリック・ライトは復帰するものの、ロジャー・ウォータースは参加を拒否、デイヴニックリックの3人編成によるピンク・フロイドは’87年に 、’94年に をリリース。それぞれのリリースに合わせたライヴ・ツアーはよりスケール・アップされた内容で話題となるが、そこにはかつてのマジックはなく、2000年に’80〜’81年の録音による ザ・ウォール・ライヴ がリリースされたものの、新作リリースの噂は残念ながら聞こえてこない。

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