’40年にニューヨークのブロンクス地区、ユダヤ系の家庭に生まれた
フィル・スペクターは、彼が幼い頃に父親が亡くなったため、’53年家族とロサンゼルスに移り住んだ。少年期は黒人系ラジオ局から流れるジャズ、R&Bに合わせてギターを弾いたり、またクラシック音楽なども聴いていたそう。高校に入りロックンロールの波に刺激された彼は、曲作りを始めたり、バンド活動もするようになる。カレッジに入学すると家庭用レコーダーでスピーカーから鳴らした音をそのままマイクで拾い音を重ねるという、一種野蛮ともいえる録音方法を実際のプロ用スタジオで試みる、という夢を抱くようになった。その後’57年5月高校時代の仲間ハーヴェィ・ゴールドスタインと紅一点アネット・クレインバード、スペクターとでお金を出し合い、シングルを自主制作する。"ドント・ユー・ウォーリー・マイ・リトル・マイ・ペット"というその曲は高校の同級生だったエンジニアに頼んで、ゴールド・スター・スタジオ(のちにスペクターの本拠地になる)で例のレコーディング法で録られたものだった。これを地元のローカル・レーベルに持ちこんだスペクターは契約を取り付け、テディ・ベアーズ名義でデビューした。前述したA面曲は大した話題にもならなかったが、地元のラジオDJ達はB面の"逢ったとたんに一目惚れ(To Know Him Is To Love Him)"に注目、こちらを流すようになった。これも例のダビングを繰り返した劣悪ともいえる音質だったが、エコーたっぷりの独特のサウンドはインパクト充分で、ついには同年9月全米チャートに初登場し、以後TV番組にも出演したテディ・ベアーズは全米1位(!)を獲ってしまった。気を良くしたテディ・ベアーズは後続のシングル、アルバム等をリリースするが、ことごとく惨敗。アルバムの方はスペクターによる自己プロデュースで制作され始めたが、その遅すぎる作業振りに業を煮やしたレーベル側が別のプロデューサーを立てて作られたものだった。また、このセールス不振が原因で間もなくテディ・ベアーズは解散する。
スペクター・サウンド〜ウォール・オブ・サウンドの代表的作品といえば、前述したクリスタルズ
"ヒーズ・ア・レベル"のほか、冒頭で述べた、後のスペクター夫人、ヴェロニカ・ヴェネット(=ロニー・スペクター) 擁するロネッツの"ビー・マイ・ベイビー"(’63年)、そしてライチャス・ブラザーズの"ふられた気持ち(You’Ve Lost That Lovin’Feelin’)"(’64年)、そして’63年のクリスマス・アルバムだろう(アルバム最後にスペクターのコメントが入っている。プロデューサーといえば裏方だった時代に、そんな試みは前代未聞)。ここまでが全盛期とされる’60年代半ばまでの活動。また’60年代後半にはアイク&ティナー・ターナーのリヴァー・ディープ・マウンテン・ハイを手掛け評価を得たが、それが唯一の評価といってもいいもので、やはり激動のロック、サイケの時代には
フィル・スペクターの存在はアウト・オブ・デイトと言わざるを得なかった。
Brian Wilson 本文でも少し触れたように
ブライアン・ウィルソンは
フィル・スペクターのサウンド、録音手法に大きなインスピレーションを得ました。 シャット・ダウンvol.2収録の"ドント・ウォーリー・ベイビー"でスペクター風サウンドが聴けるし、’99年7月に行われた来日公演では同曲と共にロネッツの"ビー・マイ・ベイビー"(ビーチ・ボーイズとしても’80年頃録音。ただし未発表)も演奏されました。また名作ペット・サウンズの録音風景はさながらスペクターがブライアン・ウィルソンに乗り移ったかのような趣きで、キビしい注文がミュージシャンにビシビシ飛ぶ(スペクターゆかりのミュージシャン多数参加も見逃せない)。そんなセッションの様子はボックス・セットペット・サウンズ・セッションズで陽の目を見たのでした。
A Homage To Phil Spector 今と比べると洋楽情報が極端に少なかった時期には木崎義二氏、我妻一郎氏らポップス評論家の方々が日本にスペクター・サウンド、ウォール・オブ・サウンドなどを紹介していたのみでした。ポップスの裏方さんにスポットを当てた文章(ライナーを書くのにクレジットを追うしか方法が無かったという苦労もあった)は貴重な情報源だったと言われます。スペクター・マニアを公言する大瀧詠一、>、山下達郎。御二方がスペクター・サウンドへの愛情をカタチにしたサウンドを聴かせてくれる貴重なミュージシャンであるのはご存知の通り。殆ど”スピリット”のレベルから受け継いでいる、とも言えるのでここではその記念碑的作品を挙げるに留めさせて頂きます。
”はっぴいえんど”後期のライヴで演奏されたクリスタルズ
"ハイ・ロン・ロン(Da Doo Ron Ron)"風アレンジの"はいからはくち"を元に、大瀧氏は"ウララカ"という曲に仕上げた、というのは有名な話。のちの”ナイアガラ・サウンド”にも繋がる"ウララカ"は大瀧さんの1stアルバムで聴けます。 若き山下達郎氏が大貫妙子さんらと組んでいたグループ”シュガー・ベイヴ”(プロデュースは大瀧氏)の唯一のアルバムに収録された"雨は手のひらにいっぱい"。スペクター・サウンドへの純粋な試みが胸を打つ名曲。