Paul McCartney
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Paul McCartney (ポール・マッカートニー) プロフィール

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Paul McCartney

ポール・マッカートニーを形容する言葉としてぴったりくるものは何だろう?元ビートルズ。“イエスタデイ“の作曲者/歌手。親しみ易く普遍的なスタンダード・ナンバーを幾つも作った稀代のメロディ・メイカー。あるいは無類のロックンロール好き。英国出身のミュージシャン中でも最高峰のセレブリティ(サーの称号すら持つ)…いやいずれも当たりではあるのだが、どこか物足りない気がする。どれもポール・マッカートニーという最高級の音楽的才能を包み込むような表現には程遠いような気がしてしまうのだ。ソングライターとして一級品のポールは同時に優れたシンガーであり、ロックンロールへのひたむきな愛情溢れるミュージシャンであり…と結局全てが大きな才能へと収束していくため、ポール・マッカートニーの才能をひとことで上手く言い表すことは困難な気がしている。等身大で受け止めるようにすればするほど、やっぱり音楽家ポールは偉大だ、という馬鹿みたいな結論しか出てこない、ほんとに…。

ポール・マッカートニーは1942年6月18日、イギリスのリヴァプールに生まれた。父親はジェイムズ(ジム)・マッカートニー、母親はメアリーといい、彼は本名・ジェイムズ・ポール・マッカートニーと名付けられた。父ジムは若い頃は綿花を扱う会社で働いたり、セミ・プロのジャズ・バンドで稼いだりもしていたようだが、第二次大戦中には兵器工場で働き、その後また綿花を扱う会社に戻っている。母メアリーは看護婦でポールが生まれた頃には助産婦として働くようになった。労働者階級のマッカートニー家ではジムの収入だけでは暮らしていけず、母が「家付き」という好条件から助産婦として働きはじめたという経緯だったが、結果的にマッカートニー家は多少裕福になり、ポールが8歳になる頃には一家はひとまわり大きな家に引っ越せるようになった。小学校時代のポール・マッカートニーは成績優秀で、名門のグラマー・スクール、リヴァプール・インスティチュート・ハイ・スクール・フォー・ボーイズに進学。ここでのちのビートル、ジョージ・ハリスンと出会って親友となっている。父親の音楽経験の影響もあって、ポールとその二つ下の弟・マイク(後にマイク・マクギアとしてデビューする)は音楽に興味を持ち始めたが、本格的に楽器に触れ始めるのは1956年、ポールが14歳の頃のことだった。14歳の誕生日に父親にトランペットをプレゼントされるが、吹きながらでは歌えないという理由で、楽器店へ行ってトランペットをアコースティック・ギターと交換してもらった。はじめのうちはどうしても上手く弾くことができなかったギターも、自分が左利きであることに気付いて弦を逆さに張り替えて持ちかえてみると、みるみるうちに上達していった。しかし労働者階級としては上の部類に属する生活を謳歌していたマッカートニー家も、この頃悲劇を迎えることになった。同1956年10月に母メアリーが癌で他界してしまったのだった。以降ポール・マッカートニーとその兄弟は父親に男手ひとつで育てられていくようになる。

ポール・マッカートニージョン・レノンと運命の出会いを果たすのは、翌1957年7月6日のことだった。当時英国で流行していたスキッフルを演奏していたグループ、クォリー・メンというバンドを率いていたジョンはその日、教会の敷地内で行われるフェスティヴァルにバンドで演奏をしていた。それを観に来ていたのがほかならぬポールだった。野外ステージ二回とホールでの演奏一回をこなしたクォリー・メンの楽屋をポールはクォリー・メンのメンバーだった人物とともに訪ね、そこでジョンを紹介してもらう。この楽屋でエディ・コクランの曲を聴き覚えで歌っていたジョンに対して、ポールはその場で正確な歌詞を教え、さらにジョンのギターでその曲を演奏しながら歌ってみせた。ジョンはこのときポールがちゃんとしたコードを弾いていたこととその歌の上手さに感心したと言われている。これがきっかけでジョンの家に遊びに行くようになったポールは、クォーリー・メンに入ることをジョンから勧められた。その後しばらくして、ポールは実際にクォリーメンに加入。クォリー・メンとしてポールが初めてステージを踏んだのは同1957年の10月のことだった。そしてその後しばらくしてポールの勧めで、他のバンドを演っていたジョージ・ハリスンがクォリー・メンの準メンバーとして入るようになる。翌1958年、ジョンポールがすっかりリーダーシップをとっていたクォリー・メンは、母親ジュリアの死にショックを受けたジョンのこともあって、やや活動を停滞させた(しかしこの頃クォリーメンは初の吹き込みを行っており、その二曲はのちにザ・ビートルズ・アンソロジー1に収録された)。1959年の春頃にはジョージが他のバンドとかけもちながら正式メンバーになり、10月にはクォリー・メンからジョニー&ザ・ムーンドッグスに改名。またジョンがアート・スクールで知り合ったスチュアート・サトクリフがこの頃加入。再度名前が変更されシルヴァー・ビートルズとなったバンドは、ピート・ベストというドラマーを加え、ライヴ活動を行っていく。いわゆる「ハンブルグ時代」だ。ドイツのハンブルグや地元リヴァプールのキャバーン・クラブで人気者となっていった彼らは、ブライアン・エプスタインというマネージャーを得て、本格的にデビューを目指す(この間に名前はビートルズへ。またポールは楽器をギターからベースに持ち替えており、スチュアートは脳出血のため帰らぬ人となった)。1962年元旦のデッカ・オーディションはじめ、いくつかのレーベルのオーディションに落ちていたビートルズは、EMI系パーロフォンのプロデューサー、ジョージ・マーティンの興味をひきようやくオーディションに合格、同年7月に契約に漕ぎ着けた。正式デビューの直前、8月ドラマーのピート・ベストに代わってリンゴ・スターが加入。ここに「あの4人」が揃った。ビートルズのデビュー後についてはよく知られている通り。ビートルズはポピュラー音楽界に大きな足跡を残した。

60年代を駆け抜けたビートルズは、他のメンバーが脱退を決めグループは事実上の解散状態だったところへ、ビートルズの最後の砦だったポール・マッカートニーが1970年2月に脱退を表明し、解散が事実化した。それと前後して同年4月には自宅録音によるマルチ・ミュージシャンぶりを示したポール・マッカートニーのソロ・アルバム、マッカートニーが発表されている。

ビートルズ解散後1971年2月にポールは初のソロ・シングル“アナザー・デイ/オー・ウーマン”を発表。これはクレジットにリンダ夫人の名があったことから、彼女に作曲能力があるかどうかが物議を醸した。同年5月にはビートルズ解散後としては初となるソロ・アルバムラムを発表。その後、ツアー再開へ向けてポールリンダはバンド結成に向かう。元ムーディ・ブルースデニー・レイン(g)、デニー・シーウェル(ds)らとともにウイングスを結成。11月にワイルド・ライフを発表するが、これは不評に終わった。ヘンリー・マックロウというもうひとりのギタリストを加えたウイングスは、翌1972年2月16日、ノッティンガム大学にてデビュー・ライヴを敢行する。また7月から欧州ツアーを行うも、8月にスウェーデンでポールがマリファナ不法所持で逮捕されるという事件が起きた。

1973年5月全米1位となった“マイ・ラヴ”を収録したレッド・ローズ・スピードウェイ発表。この辺りからポールウイングス周辺は活気づいた。5月に全英ツアーを行ったポール・マッカートニー&ウイングスは、6月にジョージ・マーティンと組んだ、ジェームス・ボンド映画のテーマ曲“007/死ぬのは奴らだ”が全英最高位9位、全米2位を獲得。

9月、デニー・シーウェルとヘンリー・マックロウが脱退し、トリオとなったウイングスは、フェラ・クティらの協力を得てラゴスでレコーディング。その作品は11月に名作の誉れ高いバンド・オン・ザ・ランとしてリリースされた。この中に収録されているタイトル曲“バンド・オン・ザ・ラン”は英米でともにナンバーワンを獲得、また“ジェット”は英米とも最高位7位を記録するシングル・ヒットとなり、アルバムとしても600万枚を売る大ヒットとなった。

ジミー・マクローチ(g/元サンダークラップ・ニューマン、ストーン・ザ・クロウズ)、空手の元チャンピオンだというジェフ・ブリットン(ds)が加入したウイングスだったが、この後1975年にはジェフに替わりジョー・イングリッシュが加入。ニューオリンズ録音のヴィーナス&マースが6月にリリースされている(英米1位)。そしてこの後、同1975年9月から翌1976年の10月にわたり、ウイングスはワールド・ツアーを敢行。12月には来日も予定されていたが、ドラッグの前歴で中止。そして1976年5月から、ビートルズ以来10年ぶりとなる全米ツアーを行うが、この模様は3枚組LPのライヴ盤ウイングス・オーヴァー・アメリカ(全英8位/全米1位)と映画「ロック・ショウ」して発表された。またこのツアー中には、メンバー各々のソロを収録したスピード・オブ・サウンドが発表されている(全英2位/全米1位)。

1977年11月にメンバーのジョーとジミーがウイングスから脱退。再び3人となったウイングスは12月にシングル”夢の旅人“をリリースしたが、これは9週間連続ナンバーワンの座を守るヒットとなり、250万枚を売り上げた。これはビートルズ”シー・ラヴズ・ユー“の200万枚を抜く記録で、この後バンド・エイドの”ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス“に抜かれるまでセールス記録を誇った。

3人組のウイングスは、1978年にロンドン・タウンを発表(全英4位/全米2位)。ベスト盤ウイングス・グレイテスト・ヒッツ(全英5位/全米29位)のリリースを挟み、新メンバー、ローレンス・ジューバー(g)、スティーヴ・ホリー(ds)が新たに加入。新生ウイングスバック・トゥ・ジ・エッグを発表した(全英6位/全米8位)。

1980年に待望の来日公演のため来日したポール・マッカートニーは、1月16日成田空港でマリファナ所持のため逮捕され、10回予定されていた公演は全てキャンセルとなってしまった。その後、同年6月にマッカートニーIIを発表(全英1位/全米3位)。また10月にポールは「最もレコードを売ったソングライター」としてギネスブックに認定される。

1980年12月のジョン・レノンの死に衝撃を受けたポール・マッカートニーは、1981年4月に正式にウイングスを解散させた。その後1982年5月にタッグ・オブ・ウォーを発表(全英15位/全米10位)。この作品に収められたスティーヴィ・ワンダーとのデュオ“エヴォニー&アイボリー”が英米ともで首位を獲得。またこれにひき続き1983年にはマイケル・ジャクソンとの共演となる“ガール・イズ・マイン”(マイケルスリラーに収録。全英8位/全米2位)、“セイ・セイ・セイ”(全英2位/全米1位)がヒットを記録し久しぶりにポール・マッカートニー健在を見せつけた。なお後者は同1983年リリースのパイプス・オブ・ピース(全英4位/全米15位)に収録されている(アルバム表題曲も全英1位のヒット)。

1984年11月に主演映画「ヤァ!ブロード・ストリート」公開。同名のサントラ盤ではビートルズ曲がカヴァーされたことが話題となり、シングル“ひとりぼっちのロンリー・ナイト”もそこそこのヒットを記録するが映画自体は不評だった。

1985年7月13日、ライヴ・エイドでポールは“レット・イット・ビー”を歌った。翌1986年にはヒュー・パジャムをプロデューサーに迎えたプレス・トゥ・プレイを発表するが、これは大ヒットには至らず(全英8位/全米30位)。その後二枚目のベスト盤となるオール・ザ・ベストを翌1987年にリリース(全英2位/全米62位)。翌1988年にはソビエト連邦向けのロックンロール・アルバム、バック・イン・ザ・USSRを発表。そして翌1989年にはエルヴィス・コステロとの共作が話題となったフラワーズ・イン・ザ・ダートを発表。これは全英1位、全米2位とセールス的にも好調だったが、内容的にも評価が高かった一枚だ。

1989年から翌1990年にかけて13年ぶりとなる大規模なワールド・ツアーを行った。その間の1990年3月には念願の来日公演が実現し(東京ドームで6回の公演)、6月には英国のイヴェント“ネブワース・フェスティヴァル”に出演。11月にこのツアーの模様を収めた2枚組ライヴ作ライヴ!!を発表している(全英17位)。また明けて1991年初頭には、MTVの番組「アンプラグド」に出演。この模様は同年7月に公式海賊盤というタイトルでリリースされた(全英7位)。またこの前後に初のクラシック作品リヴァプール・オラトリオがリリースされている。

1993年2月、アルバム、オフ・ザ・グラウンド発表(全英5位)。そしてこの直後から開始された「ゲット・バック・ツアー」ではステージの選曲の半数近くにビートルズ・ナンバーを加えた演奏を聴かせた。この模様は1993年11月発表のポール・イズ・ライヴ(全英34位)で聴くことができたが、このリリースと同時期に来日公演も実現している。またこの同時期に元キリング・ジョークでハウス系のリミキサーとしても活動していたユースとのコラボレーション作ストロベリーズ・オーシャンズ・シップス・フォレストをファイアーマン名義で発表したりもした。

1995年にはボスニアの戦災孤児を救援するプロジェクトであるアルバムヘルプに参加。またよく知られるようにビートルズのアンソロジー・プロジェクトでも役割を担った。その後1996年には、発案し後援する芸術専門学校リヴァプール・インスティテュート・フォー・パフォーミング・アーツ(LIPA)が開校している。

1997年にはアルバム、フレイミング・パイを発表。これはアンソロジー・プロジェクトに深く関わったジェフ・リンがプロデュースしたが、またポールの息子ジェイムスがギターで参加したことも話題となった。なお同年にはEMI100周年のために作曲を依頼され4年を費やして単独で作曲した交響詩スタンディング・ストーンも発表された。

1998年4月17日、公私ともにパートナーであった愛妻リンダが死去。その後ほぼ完成の域まで達していた彼女のソロ・アルバム、ワイド・プレイリーポールの手によって仕上げられリリース。またリンダの生前に完成していたというファイアーマンの二作目ラッシズも同年に発表されている。

1999年には愛着のあるロックンロールへの回帰といえるR&Rカヴァー集ラン・デヴィル・ランと、クラシックの小品とソロやウイングスの曲を弦楽四重奏などにアレンジしたアルバム、ワーキング・クラシカルを発表。またリンダの功績を讃え、癌の研究に役立てるための基金ガーランド・アピールが設立され、ポールとイギリスのクラシック作曲家がリンダのために曲を書き下ろすという出来事も。これは2000年になってア・ガーランド・フォー・リンダのタイトルでリリースされた。そして1999年12月14日、ラン・デヴィル・ランに参加したミュージシャンとともに、ポールはリヴァプールのキャヴァーン・クラブで演奏。キャヴァーンはビートルズが最も多く出演した小さなクラブだった(この模様はLive At The CavernとしてDVD/ビデオ化された)。

2000年に入るとポールはピーター・ブレイクの依頼で、展覧会「アバウト・コラージュ」のために音をコラージュした作品を制作し、アルバム、リヴァプール・サウンド・コラージュとして発表。また40歳になってから本格的に油絵を描くようになったポールは、2000年9月には画集をイギリスで発売してい(1999年5月には初の絵画展をドイツのジーゲンで開いていた)。

翌2001年には、書きためていた詩を『ブラックバード・シンギング』という詩集で発表。ビートルズ解散、ジョンの死、リンダの死にふれた詩もあり、これまで発表した曲の歌詞も含まれている。またポールウイングス時代の活動を集大成したウイングスパンというプロジェクトを進めていたが、これは2001年に形となる。2枚組ベスト・アルバム夢の翼〜ヒッツ&ヒストリーが5月に発売、リンダとの出会いからウイングスの解散までをまとめたテレビ・ドキュメンタリーがアメリカやイギリスで放送されている(現在はDVD/ビデオでソフト化されている)。そして2001年11月、オリジナル楽曲によるスタジオ録音作としてはフレイミング・パイ以来4年ぶりとなるドライヴィング・レインを発表。2002年にはラスト・ツアーとも呟かれたツアーを敢行。ビートルズナンバ−を惜しげもなく披露し、世界中のファンを歓喜させた。なおこの時の模様はライヴ・アルバム、ドライヴィングUSAで聴く事が出来る。なおDVDもリリースされているので、機会があれば是非ご覧いただいたい。ビートルズ以来、いまだ音楽シーンの一線でコンスタントに活動を続けていることを大きくアピールした。

ポール・マッカートニーの歌の特徴として挙げられるのは、非常に器用で柔軟な感覚を持ち合わせていることだろう。それは決して器用そうなシンガーではないジョン・レノン(しかし人を惹きつける歌の魅力は凄い)が横に居たのだから、目立ってしまうということもあるのだが、それを差し引いても自らの作った多彩な楽曲に対して、その曲ごとの潜在的な良さを全て引き出してしまうかのような必要十分な歌というものは凄い。初期から現在まで一貫して聴かれる、リトル・リチャードなどロックンロールの巨人達からの影響をモロに感じさせるシャウト系の歌い方から、古典的なスタンダード・ポップスの良さを印象付ける柔らかな親しみ易い語り口まで。正にバラエティに富んだ音楽の豊かさを見せ付けてくれるのがポールの真髄であり、ビートルズ後期にはそうした歌の多様さが早くもひとつの頂点を極めているかのように見える。

ポール・マッカートニーのフォロワー的なシンガー/アーティストとして一番手に挙げられるのは、70年代のソロ作が再発され90年代に入ってからよく知られるようになった元メリー・ゴー・ラウンドのエミット・ローズあたりか。彼はそのアルバムでほぼ全楽器を演奏しているという才能を披露。この辺の味に通じるのが最近発掘されたパワーポッパー、ヴァン・デューレンビッグ・スターのような南部のいなたさ・プラス・ ポール/ウィングス的なパワー・ポップ風味が持ち味で、彼にもほぼ独りで演奏した作品がある。この辺りの影響を堀り下げるとカートニーの初期ソロとブライアン・ウィルソン的なものをルーツとする宅録、独演系のアーティスト(トッド・ラングレンや最近だとジム・オルークなどもポールの1stソロをフェイバリットに挙げていた)から、ウイングスバッドフィンガーからラズベリーズなどへ連なり発展していったパワー・ポップ系のバンドまでと、もの凄く広範囲になっていく。本当に無数のフォロワーが居るといっていいだろう。また余談ではあるが、ニック・ロウの名作ジーザス・オブ・クールが入手し辛くなっているのは勿体ない話だと思う。ポール・マッカートニーのファンにはぜひ聴いて欲しい一枚として紹介したい。

巨大な音楽的才能と普遍的なメロディメイカーとしての才、そしてクールにきめてみせる中にもその人柄が如実に現れるポール・マッカートニーの歌声。それは確実に20〜21世紀の生きた財産だ(自分はシリアスな音楽ファン〜ロック・ファンだ、と思っている人の中には、よくその生きた財産の価値を認めることをしない人がいるのは少し悲しいが)。こんな大袈裟な言葉しかでてこないが、本当のことだからしょうがない。こんな風に言っても、ポールなら片方の眉を上げていつものおどけた笑顔をしてくれるだろうか。

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