OASIS
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OASIS (オアシス) プロフィール

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のちにオアシスの顔となるノエル・トーマス・ギャラガー(ノエル:1967年5月29日生)とウィリアム・ジョン・ポール・ギャラガー(リアム:1972年9月22日生)は英国北部のマンチェスターにギャラガー家の次男、三男として生まれた(ちなみに長兄のポール・ギャラガーはのちにバンド・マネージャー及びA&Rマンとしてクリエイション・レコーズで働くことになる)。父は建築現場作業員ということで家庭は典型的な労働者階級に属したが、その父は酒乱で博打うちで、暴力をふるうは、家に金は入れないは、女はつくるは、という問題を抱えた父親で、主に母のペギーが働いて家計を支えていたという(のちに父親による自分や子供への暴力に耐えかね、息子3人ともに夜逃げしている)。

英国労働者階級の間でまことしやかに語られる、有名になり経済的にも成功するにはミュージシャンになるか、サッカー選手になるしかない、という物語。厳然たる事実として階級制度が存在する英国で育ったノエルも、ご多分に漏れず4歳の頃に見に行ったサッカーの試合をきっかけにマンチェスター・シティのファンになり、サッカーに興味を抱く一方で、10歳の頃セックス・ピストルズの登場に衝撃を受け音楽に目覚めるという少年時代を送っている。また13歳の頃はじめてギターを手にしているが、同じ頃、近所で強盗を働き6か月間の保護観察処分を受ける、という悪ガキぶりも発揮していた。

一方のリアムはこれに輪をかけた幼少時からの問題児で、6歳の頃に受けもった彼の担任の先生は母ペギーに、彼のおかげで毎晩精神安定剤のお世話になっている、とまで言うほどの悪ガキだった。リアムはその後15歳で義務教育を数ヶ月残して中学校を退学させられるが、母の懇願によって復学、何とか卒業までこぎつけたという。またリアムは16歳の頃、ジェイムスの前座だったストーン・ローゼズを観に行き、ただならぬショックを受け音楽に目覚めた。そうして兄ノエルにデュオを組もうと再三持ちかけたが、三度とも断られたという。

1990年4月のある日、ギャラガー兄弟はストーン・ローゼズのギグを観に行った。その晩にノエルはインスパイラル・カーペッツクリント・ブーンと知り合い、彼らのバンドのギタリスト兼マネージャーとなる。一方でリアムは、ポール“ボーンヘッド”アーサーズ、ポール“ギグジー”マッギギャン、トニー・マッカロールの3人が組んでいたバンド、ザ・レインに参加し音楽活動を始める(のちにバンド名をオアシスと替えて新たにスタートすることとなる)。1991年8月18日、ノエルがリアムたちがやっているオアシスのデビュー・ギグを観に行く。そこでノエルは、自分が参加してリーダーになり、オアシスをまともなバンドにする、ことを決意(というよりリアムらの演奏を見て酷評したノエルに、リアムがじゃあテメエでやってみろよ、とけしかけたのが始まりらしい)。ここでオアシスのラインナップが遂に揃った。

ノエル加入後初のライヴは1992年1月15日。因みにその翌日、ノエルはインスパイラル・カーペッツのローディーとして日本へ出発するという状態の生活だった。1993年5月31日、当時クリエイション・レーベルの総帥として知られたアラン・マッギーがグラスゴーのキング・タッツに足を運ぶ。同日、友人の女性バンド、シスター・ラヴァーズがキング・タッツに出演すると聞きつけたオアシスは、ブッキングもされていないのに無理やり押しかけて出演。このステージを見たアラン・マッギーは即座にオアシスに惚れ込み、その場でアルバム5枚分の契約を持ちかけたと言われる。6月、オアシスのデモ・テープが元スミスのジョニー・マーのもとに渡る。彼らを気に入ったジョニーは以前ピート・タウンゼントが使用していたというレス・ポール型のギターをノエルにプレゼントした、という逸話も残っている。

1993年10月22日、20社以上というレコード会社による争奪戦を制し、クリエイション・レコーズがオアシスとの契約にこぎつける。イギリス以外はソニー・ミュージックの配給という内容だった。1994年の初頭にデモ・テープを録音していた彼らは2月契約後初のギグをキングス・クロスのウォーター・ラッツで行う。200人が入場できず、また路上でホワイト・アウトと喧嘩を起こし、早速プレスに話題を提供した。2月18日、オランダのアムステルダムに乗り込み、ザ・ヴァーヴのギグに参加する予定だったオアシスだが、この時の行きの船でノエル以外の4人が大暴れ。4人は強制送還をくらい、独り弾き語りのステージを行うはめになったノエルは激怒したという。

1993年4月、1stシングル“スーパーソニック“リリース(全英ナショナル・チャート31位)。6月、2ndシングル”シェイカーメイカー“リリース(全英ナショナル・チャート11位)。8月、3rdシングルで名曲の誉れ高い”リヴ・フォーエヴァー“リリース。名曲ではあったがアルバムがすぐ後に控えていたためかナショナル・チャート10位とやや控えめな結果に終わった。またこの頃にはオアシスの「やんちゃぶり」は有名となっており、その暴れっぷりはプレスに格好のニュースを提供した。3rdシングル・リリースの翌日ニュー・キャッスルでの公演中、ステージに上がって狼藉を働いた男と、ノエル、リアムが乱闘を繰り広げたり、また13日にはフェスティヴァル出演で出向いたスウェーデンでプライマル・スクリームのメンバーと共に閉店後のバーに侵入し、乱痴気騒ぎを起こしたうえに、教会からワインを盗むなどの騒ぎを起こした。一行が教会からホテルへ戻ったときには警官がホテルを取り囲んで一行の帰りを待ち受けていたという。

そして8月30日、記念すべきデビュー・アルバム ディフィニトリー・メイビー発表。全英チャートのトップを奪取したこの作品は、1年後までチャートの20位以内に留まりつづけることになった。また9月には東名阪のクラブ・クアトロを廻る初の来日公演を行っている。

10月“シガレット&アルコール”をシングル・カット。またこの頃アメリカ西海岸で公演を行う。このときの公演でドラッグをキメたリアムに激怒したノエルは、リアムと乱闘となり、その直後失踪。慌てたクリエイションのスタッフがノエルを説得しにLAまで赴くという騒ぎもあった。12月19日、サイケ期ビートルズのストリングス・アレンジを彷彿とさせる新曲“ホワットエヴァー”をクリスマス・マーケット向けにリリース。この曲はマライア・キャリーテイク・ザットに阻まれチャートは3位止まりだった。

1995年1月、ポール・ウェラーのアルバム スタンリー・ロードにノエル参加。またNME主催のブラット・アウォードでベスト・シングル、ベスト・バンドを獲得するも現場でリアムはまたもや喧嘩。4月、シェフィールド・アリーナで1万2千人を集めたギグを行った2日後、シングル“サム・マイト・セイ”をリリース。このショウとシングルを最後にドラマーのトニー・マッキャロルが解雇される。代わりにスタイル・カウンシルのスティーヴ・ホワイトの弟、アラン・ホワイトが加入する。

8月18日、2ndアルバムからの先行シングル“ロール・ウィズ・イット”リリース。同日発売のブラー“カントリー・ハウス”に首位を奪われるが、これはブラーがイギリスでよく行われるところの”シングル2種類”の体裁をとったためとも言われている。この頃からメディアが仕掛けた部分もある「ブラーオアシス」という当世人気ブリット・バンドによる敵対の構図が表面化し、それぞれのメンバー達もお互いに悪態をつき続け、のちのちまで世間を賑わすこととなった。またこの8月には二度目の来日公演も行われた。なお彼らが来日中に英国では彼らを巡る大問題が起きていた。ブラーに敵対する発言の中で、エイズに関する言葉を不用意に使ったノエルに世論が反発。これに対してノエルはHIV感染者への配慮を欠く失言をしたことを認め、関連団体等に謝罪した。9月4日、ノエルがボスニアのチャリティ・アルバム ヘルプ の録音に参加。ビートルズのカヴァー、“カム・トゥゲザー”で、ポール・マッカートニーポール・ウェラーとの共演を果した。

10月10日、2ndアルバム モーニング・グローリー発表。「イギリスで最も売れ行きの速いアルバム」記録を樹立。結果的にも全英1位、全米4位を記録する大ヒットとなり、その後も売れ続けた同作品は英米どちらでもロングセラーとなる。30日、シングル”ワンダーウォール”リリース(全英2位)。また11月5/6日には、2万人収容のアールズ・コートでのショウを行い、大成功を収めている。

1996年1月8日、ノエルが歌う名バラード曲“ドント・ルック・バック・イン・アンガー”リリース。1位を獲得し、ここでセールス的にもバンドの勢い的にもブラーに完勝をおさめたといえる。またノエルはこの頃、ケミカル・ブラザーズの“セッティング・サン”に作詞とヴォーカルで参加して話題をまいた。2〜4月にかけてオアシスは全米ツアーを行う。この頃リアムと元エイスワンダーの歌姫パッツィ・ケンジットとの噂がマスコミの話題にのぼり始めた。英国に戻った彼らは4月27/28日、彼らがサポーターであるマンチェスター・シティの本拠地メイン・ロードで合わせて8万人を動員するギグを行い、故郷に錦を飾った。さらに8月10/11日には、ネブワース・パークでその動員を上回るギグを開催。2日合わせて25万人という快挙で、チケット予約にはその8倍の200万件が殺到したといわれている。ビッグになるんだ、と絶えず言い放ってきたオアシスの急速に膨れ上がってきた人気は一旦ここで頂点を迎えたと言えるだろう。オアシスの歌を大観衆が声を合わせて歌うさまは、ひいきのサッカー・チームの応援歌をサポーターが歌うさまを思わせると同時に、観衆が自分達と同じ地平から出てきた男達の勝利を祝うことをも意味しているようだった。

ただこの後に雲行きは怪しくなってきた。8月23日MTVアンプラグド・ショウ出演時に、リアムが喉の不調を訴え結局歌わず、代わりにノエルが歌うこととなるが、オンエアは中止となってしまった。26日、アメリカ・ツアーへ出発する空港からリアムが失踪。家に帰ってしまったのだった。仕方なくノエルのヴォーカルでツアーを続けていたバンドに途中からリアムが合流するも、ろくすっぽ歌わなかったり、観客をからかったりと歌う気が全くない様子で、その後もトラブルが続いたバンドは、結局9月11日の公演前にリアムとノエルが殴りあいの喧嘩をし、その後のショウは全てキャンセルという事態にまでなったのだった。また11月10日早朝には、前の晩にゴシップ記者ともめ、パッツィと大喧嘩し、泥酔したリアムが、オックスフォード・ストリートを歩いているところを職務質問され、その際コカイン所持が見つかり逮捕されるという事件も起きる(結局、翌年1月に警告つきでリアムは不起訴となったが)。

1997年4月7日、リアムが噂のあったパッツィ・ケンジットと結婚。ロンドンに2億円の豪邸を購入。一方6月にはノエルがラスベガスでメグ・マシューズと挙式を挙げている。7月、3rdアルバムからの先行シングル“ドゥ・ユー・ノウ・ホワット・アイ・ミーン?”リリース。8月21日に日英同時発売で3rdアルバム ビー・ヒア・ナウをリリース。全英1位、アメリカでは前作ほどのセールスは上げなかったが、1位は獲得している。9月、シングル“スタンド・バイ・ミー”リリース。全英2位。同月25〜27日、再びアールズコートでショウを行う。前座はザ・ヴァーヴだった。12月、シングル“オール・アラウンド・ザ・ワールド”リリース。これは全英初登場1位を奪取した。

1998年2月18〜20日の3日間、日本武道館で来日公演。これはノエルが、ライヴ会場もホテルもビートルズと同じものにすること、と指示を出したからだった。またこの後ツアーで訪れたオーストラリアで、狂信的なファンである地元のジャーナリストにリアムが頭突き/殴打を食らわしたかどで逮捕という出来事もあった。5月にはノエルが映画‘X-ファイル’のサウンドトラックに曲提供。今のところこれが唯一のソロ名義作品となっている。10月、シングルのB面曲を集めたコンピレーション・アルバム マスタープラン を発表。これは数字が公表されていないので真偽は不明だが、インターネットを通じてファンに人気曲を募り、選曲されたものだと発表された。

1999年4月21日、ニュー・アルバムのレコーディングをフランスの古城で開始。そして8月に突如ギグジー&ボーンヘッドの脱退が発表される。オアシスが初めてプレイしたウォーター・ラッツにてリアムとノエルが記者会見を開き、正式に発表したのだった。9月13日、リアムとパッツィの間に長男が誕生。リアムが憧れてやまないジョン・レノンからとって、レノン・フランシス・ギャラガーと名付けられる。11月25日、英国の大衆紙Sunによってオアシスのクリエイションからの離脱がスクープされる。アラン・マッギーはこの時点でノー・コメント。ノエルは、ビートルズのアップルのような自己のレーベルを立ち上げたい、と語った。12月、新メンバーとして、元ヘヴィ・ステレオのGEMがギタリスト、元ライドハリケーン#1のアンディ・ベルがベーシストとして加入(当初ベースはモナコのデヴィッド・ポッツとも報じられたが、土壇場でゲイ・ダッド参加の話を蹴ったアンディに決まった)。

2000年1月27日、ノエルとメグの間に長女誕生。アナイス・ギャラガーと命名される。2月9日、新レーベル「ビッグ・ブラザー」から4thアルバムに先駆けてシングル”ゴー・レット・イット・アウト”リリース。そして23日には旧メンバーで録音されたニュー・アルバム スタンディング・オン・ザ・ショルダー・オブ・ジャイアンツ が発表された。その後、29日から4度目の来日公演を行っている(ある会場ではリアムが歌わないという事件もあった)。その後4月には第2弾シングル ”フー・フィールズ・ラヴ”を、7月に第3弾となる”サンデイ・モーニング・コール”を、とシングルをリリースしながら、その間ヨーロッパやアメリカをツアーして廻った。そして周知の通り、このツアーではノエルがリアムのグループに対する態度に業を煮やし(といわれている)途中からツアーを離脱。またもやバンド周辺に何度目かの危機が訪れており、その後英国での公演時にノエルが復帰しステージを行ったという報が入ってくる。

2001年にはフジ・ロック・フェスティバルのメイン・アクトとして来日。それまでの最大動員数を塗り替えたとも伝えられている。翌年2002には5作目となる ヒーザン・ケミストリーを発表。発売前にネット上で収録曲のほとんどが何者かによって公開されてしまうという、とんでもない事件にも見舞われたが、相変わらずの人気でヒットを記録している。

2004年には結成10年目を迎えたオアシス。 兄弟喧嘩が多くいつ解散してもおかしくない状況の中、よく10年続いたという思う方も多いことだろう。 そして新たなディケイドを踏み出す前に10年前を振り返る映像集『ディフィニトリー・メイビー - The DVD』をリリース。デビュー当時から他のバンドとは違ったオーラ、圧倒的パワーを放っている彼らを再確認することとなった。

そして2005年6月、前作『Heathen Chemistry』から3年振りとなる新作『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』をリリースするオアシス
2004年1月にはもはや不動のメンバーと思われていたドラマーのアラン・ホワイトが脱退(現在はリンゴ・スターの息子ザック・スターキーが参加中)、4人での新たなスタートとなる今作はノエルを中心に各々のメンバーの楽曲が数曲収録されていたり、ロゴが変更になったりとこれまでとは違うオアシスの第3章が新たにスタートする。

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