Nine Inch Nails

Nine Inch Nails (ナイン・インチ・ネイルズ) プロフィール

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Nine Inch Nails

暗黒の世界から落ちてきた堕天使、あるいは90年代を代表するロック界のカリスマ ―― ナイン・インチ・ネイルズことトレント・レズナー。彼をそう称して異論を唱えるものはまずいないだろう。ナイン・インチ・ネイルズやその後続とも言えるコーンなどの一連のトラウマ・ロック勢の幼少時の虐待体験などを赤裸々に語った歌詞の世界に「そんな個人的な事言われても…」とイマイチ感情を移入出来ないという人も多い事だろうが、世界中でこれだけ多くの支持を集めるという事実は単に音がカッコ良いとか、マスクが甘いとかいうレベルの話じゃなく、もっと、こう、根本的な概念を覆すような何かが隠蔽されているような気がする。そう、狂ってるのは彼らじゃなくて、マトモだと思っていたこっちの方なのかも…?

ナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーは1965年5月17日ペンシルヴァニア州マーサーに生まれる。幼い頃に両親の離婚を経験し、祖父母に引き取られて育ったレズナーは当時から周囲とは距離を置き、塞ぎがちな性格であったという。5歳の頃からクラシック・ピアノのレッスンを受けていたレズナーは、いつしか音楽に出会う。クイーンピンク・フロイド、そしてなんと言っても最大のアイドルはプリンスであった。ナイン・インチ・ネイルズの一人称的なプロジェクトのイメージ、孤高なまでの存在感はこの頃の殿下からの影響なのだろうか。

大学に進みコンピューターを専攻する頃レズナーの音楽的嗜好はロックから次第にエレクトロニック・ミュージックへと傾いていった。ジョイ・ディヴィジョンニュー・オーダーディス・モータル・コイルフロント242…などニューウェイヴからボディ・ミュージックまで、どちらかというとダークで耽美的な音に傾倒していった。結局大学は1年通学しただけで中退し、’88年プロのミュージシャンを目ざしオハイオ州クリーブランドへと移り住む。音楽製作の傍らリハーサル・スタジオのトイレ掃除をするなど、食うや食わずの生活を送っていた時期もあったが、その後エンジニアやスタジオ・キーボーディスト等の職にありつき生計を立ててゆく。黙々と製作し続けていたデモ・テープを各レコード会社に送るという日々が続くがそんな日々も終わりを継げようとしていた。ニューヨークのインディ・レーベルTVTがデモ・テープに興味を示し、’89年プリティ・ヘイト・マシーン – Pretty Hate Machineナイン・インチ・ネイルズとして悲願のミュージシャン・デビューを果たしたのである。特に話題になることもなく地味に終わったデビューだったがここからレズナーの神話が始まるのである。

90年代に入り数枚のシングルをリリースしたナイン・インチ・ネイルズはこの頃から所属していたTVTと折り合いが悪くなり、遂には法廷論争にまで発展する。翌91年にはジェインズ・アディクションポルノ・フォー・パイロスペリー・ファレル主催のオルタナティヴ・ロックの見本市のようなイヴェント、ロラパルーザ出演。大きな注目を集める切っ掛けとなる。そしてもうひとつナイン・インチ・ネイルの名が世界に広まる大きな切っ掛けとなったのが、当時のロック界で最大かつ最強の存在であったガンズ・アンド・ローゼズのアクセル・ローズからのラヴ・コールである。当時スタジアム・クラスの会場を軽く満員にしてしまうほどの人気だったガンズのアクセルがライヴ時に好んでナイン・インチ・ネイルズのTシャツを着用、そしてアクセルのご指名でロンドンのウェンブリー・アリーナ公演を含む3回の欧州コンサートでガンズのオープニング・アクトを務めるナイン・インチ・ネイルズの名と姿と音を観衆の記憶に焼き付けた。。

TVTとの契約問題にカタをつけたレズナーは、自らが音楽活動に没頭出来る場を求めインタースコープ内に自身のレーベル、ナッシングを設立する。そして92年大出世作となるブロークン – Brokenを発表する。ビルボード初登場7位を記録した本作でその地位を揺ぎ無いものとした。因みに収録曲の“ウィッシュ”は92年度のグラミー賞ベスト・メタル・ソングを受賞している。同年ブロークンのリミック盤であるフィックスト - Fixedを発表。インダストリアルの先駆者であり、レズナーが尊敬して止まないコイルジム・フィータスらがリミキサーとして参加した。そして94年、ナイン・インチ・ネイルズ最高傑作との呼び声高いダウンワード・スパイラル – Downward Spiralを発表。ビルボード初登場2位を記録する。トラウマと絶望と苦悩と狂気の狭間に潜む美しさを醸し出した本作で、カート・コバーンに変わる新たな90年代ロックのカリスマとして君臨する事になる。また同年自らのレーベル、ナッシングの(自分以外の)第一弾アーティストとして、その後自らの存在をも脅かしてしまう存在にまで成長してしまう事になる(とは予想だにしていなかったであろう)マリリン・マンソンをこの世に送り出す。翌95年にはダウンワード〜のリミックス盤であるファーザー・ダウン・ザ・スパイラル – Further Down The Spiralを発表。当時テクノ界で話題になりつつあったエイフェックス・ツイン等がリミキサーとして指名されている。以前から熱心だったレズナーの映画絡みの仕事の中で最も印象深いのは何といっても、レズナーが監修を手がけたデヴィッド・リンチ監督作品ロスト・ハイウェイのサントラだろう。当時旺盛を極めたドラムン・ベースにアプローチしながらも一聴しただけでそれと解るナンバー、パーフェクト・ドラッグを提供し話題を集めた。

自らが創り上げながらも、思うようにコントロール出来なくなるほど大きくなってしまったマリリン・マンソンとも袂を分かち、そのカリスマにも影が掛かり始めたかと危ぶまれるも、99年暮れ遂に5年間の空白を埋めるフラジャイル – Fragileを発表。2枚組というヴォリュームながら周囲の予想通りビルボード初登場1位を記録。しかし更に内に向かった精神世界を露呈した本作は、少なからずファンの間で論争を巻き起こす事になる。翌2000年1月まさに待望といえる初来日公演を行う。圧倒的な存在感で我々を魅了したのも記憶に新しい。同年フラジャイルのリミックスであるシングス・フォーリング・アパート – Things Falling Apartを発表。ポスト・ロック〜エレクトロニカ・リスナーの間で話題のテレフォン・テル・アヴィヴをリミキサーとして起用するなど相変わらずの耳の早さをここでも垣間見れる。

そして2002年、圧倒的なライヴのステージを収録したキャリア初のライヴ盤アンド・オール・ザット・クッドハヴ・ビーン - And All That Could Have Been – Liveを発表する。

今となっては「インダストリアル」という方法論は以前ほど刺激のあるものではなくなってしまったかもしれないが、ナイン・インチ・ネイルズの音楽が錆び付いてしまったという事とは無論イコールではない。更に深い闇に潜り込むのか、それとも闇から開放されるのか、これからもこの男の動向はチェックしておいて損はない。

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