Minnie Riperton

Minnie Riperton (ミニー・リパートン) プロフィール

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ポピュラー史に残る名曲「ラヴィング・ユー」で、まさに一世を風靡した天使の歌声を持つミニー・リパートン。その優しさに満ちたヴォーカルはいつの時代も私達に安らぎを与えてくれる。

1947年8月11日、イリノイ州シカゴに8人兄弟の末っ子として生まれたミニーは、幼少時代よりクラシック音楽を学び、11歳になる頃にはすでに5オクターブの声域を持つ天性の才能を発揮、自身は将来、オペラ・シンガーになる事を夢見ていたという。そんな彼女も60年代に入ると次第にポピュラー音楽に興味を示すようになり、地元シカゴを拠点とする名門R&Bレーベル、チェス・レコードのハウス・ヴォーカル・チームであるジェムズに加入し、ラムゼイ・ルイスエタ・ジェイムズデルズフォンテラ・バス等の作品に参加、シングル「That's What They Put Erasers On Pencils For」を録音し、その瑞々しい歌声は業界内ではちょっとした評判となった。

ジェムズ脱退後、ミニーはチェス・レコードの秘書として働くが、やはり音楽から離れる事はできず、’66年にはアンドレア・デイヴィスの名で、そして’67年から’70年にかけてはロタリー・コネクションのリード・シンガーとして活躍、6枚のアルバムを残した。先進的な彼等の音楽性は当時、正当な評価を置ける事ができず、結果としてグループは自然消滅してしまう事になるが、後に結婚し、あの「ラヴィング・ユー」を共作するリチャード・ルドルフと運命的な出会いをするのもちょうどこの頃だ。’70年、リチャードと一緒に作った最初のソロ・アルバム「Come To My Garden」をリリース。大きなヒットには至らなかったが、シカゴからマイアミに新天地を求めたミニーとリチャードの音楽への情熱は決して失われる事はなく、そんな中で生まれたのが、あの「ラヴィング・ユー」だった。スティーヴィー・ワンダーも参加して制作されたアルバム「Perfect Angel」は大ヒットとなり、「ラヴィング・ユー」は’75年4月5日付、ビルボード誌ポップ・シングル・チャートで堂々のナンバー1を記録。ミニーは一躍」スターダムへとのし上がった。その勢いを駆って同年5月には矢継ぎ早にアルバム「Adventures In Paradise(ミニーの楽園)」を発表。また、クインシー・ジョーンズのアルバム「Body Heat」で歌った「If I Ever Lose This Heaven」においても素晴らしいヴォーカル・パフォーマンスを披露。

しかし順風満帆に思えたミニーに突然の悲劇が襲う。’76年始め、彼女の胸に悪性の腫瘍が発見され、乳房の除去手術を余儀なくされる事になってしまう。しかし、そんな逆境の中にあっても、ミニーのポジティヴな姿勢は何ら変わる事はなく、テレビ等の媒体を通じて自らの闘病体験について赤裸々に語り、乳ガンに対する不安に苛まれる多くの女性達に正しい知識と早期治療を訴え続け、ACS(全米ガン協会)にも加入、その勇気ある行動に対し、当時の大統領ジミー・カーターより表彰状が贈られ、協会の会長にも就任する事となった。

同じ年、’77年暮れには久しぶりのアルバム「Stay In Love」をリリースするが、音楽的方向性の相違により所属していたエピックと対立、キャピトル・レコードへの移籍を決意。’78年夏、定期検査を受けながらもレコーディング活動を精力的にこなしていった。そんな苦境を乗り越え、’79年4月、ニュー・アルバム「Minnie(ミニーと出会ったら)」が完成。しかし、時を同じくして彼女は自身の命が今年一杯もたない事を宣告されるのである。愛娘マヤの為にも必至に病気と闘ったミニーだったが、その甲斐もなくその年の7月12日、永遠の眠りについてしまう。前日の11日の夜、互いに敬愛し合うスティーヴィー・ワンダーが見舞いにやってきたばかりだった。享年31歳、あまりにも早過ぎる死に世界中が哀しんだ。

ソウル・ファン、いや、洋楽を普段お聴きにならないという方でも一度は耳にした事があるであろうかの名曲「ラヴィング・ユー」。5オクターブの声域を持つミニー・リパートンの天使のような歌声は、世代を超えて私達を感動させ、シャニースや、スパークルジャネット・ケイ等、多くのア-ティスト達に歌い継がれている。

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