Keith Jarrett
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Keith Jarrett (キース・ジャレット) プロフィール

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 1945年5月8日、ペンシルヴァニア州、アレンタウンに生まれたキース・ジャレットは、3歳でピアノを始め、7歳で初めての「リサイタル」を開いたという。
 1962年に学校を卒業するとバークリー音楽院に学び、この頃からボストン周辺で彼のオリジナル・トリオで活動し始めている。

 1965年ニューヨークに移ったキースはアート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズに4ヶ月ほど参加している。この時期の演奏が『Buttercorn Lady』(Limelight)として残っている。チャック・マンジョーネ(tp)を含むクインテットの演奏は、初期のキースの姿を捉えた貴重な作品。

 1966年、当時“ポスト・コルトレーン”の最右翼と見られ、昇竜の勢いだったテナー・サックスのチャールス・ロイドのバンドに参加、1969年までの在団時に、ピアニストとしての評価を固めることになる。

 参加直後の1966年3月末に録音された『Dream Weaver』ではジャック・デジョネットセシル・マクビーという若手最高の人材と共にロイド・ミュージックの有力な担い手として活躍している。その後、9月には名作『Forest Flower』に参加、ヨーロッパ・ツアーに出発、やがて大きな影響を与える「この地」に演奏家としての初めての足跡を残している。

 1967年には、文化施設として当時のソビエトを訪れ『Charles Lloyd In The Soviet Union』を残している。
 キースはこのツアーに先立つ1967年5月4日、初リーダーアルバム『Life Between The Exist Signs』を、チャーリー・ヘイデンポール・モチアンという、当時も現在もピアノ・トリオにおける最高のサイドメンを従えて、アトランティック・レーベルの傍系「Vortex」レーベルに吹き込んでいる。

 1968年から1969年は、キースにとって次の飛躍へのステップの中間の年であり、68年10月にはキース・ジャレットのオリジナリティを初めて世に問うた名作『Somewhere Before』を、前作と同じくヘイデン〜モチアンとのトリオで録音、「民族派」、もしくは「カントリー派」的な感性を感じさせている。やがて、キースは1969年11月の『Forest Flower '69』をもってロイド・グループを退団する。

 1969年、マイルス・デイヴィスに請われ彼のバンドに参加、当時のマイルス・バンドは『Bitches Brew』サウンドを標榜した時代で、キースには本意ではなかったかもしれないが、『Live-Evil』『Miles At Filemore』『Get Up With It』などに参加する。

 1971年、発足間もないECMレーベルへ、ジャック・デジョネットとのデュオによる作品『Ruta And Daitya』を録音、新しい出発を図った。
 続いて、契約が残っていたらしいアトランティック・レーベルに、『The Mourning Of A Star』『Birth』を録音、後者ではトリオにデューイ・レッドマンが参加、この後のグループとしての「表現形式」が形作られている。

 一方でECMへはソロ・ピアノ・ブームの先駆けとなった初期キースの最高作『Facing You』を1971年11月に録音、さらに72年春には、“勇み足”と後年揶揄された『Expectations』をメジャー「Columbia」からリリースする。この時期、キースはマイルス・バンドで共演したアイアート・モレイラの『Free』や同じくアイアートが参加したCTIへのフレディ・ハバードの『Sky Dive』にも参加している。キースにとって次のキース時代への序章とも言える時期で、後年、形を成す表現フォーマットを矢継ぎ早に試している。

 発売は相前後するが、『Shades』でレギュラー・カルテットを解散したキースは、ソロ活動と共に新しいカルテットを、2歳年下の北欧ノルウェイの若き獅子、ヤン・ガルバレクを迎えて結成、一方、75年に入るとキース・ブームを巻き起こし、『Return To Forever』と共にECMレーベルの基礎を固めた、LP2枚組のソロ・アリバム、『Koln Concert』を録音する。当時までの常識からいって、LP2枚組のソロ・ピアノなど考えられない時代だったが、この作品は爆発的なヒットを記録する。

 その後は、それまで築いてきた路線を進化させると共に、新たなオルガン表現の可能性を模索した『Spheres』を発表する。その後も、ソプラノを吹いたり、ソロ・ピアノを弾いたりと、ややクラシカルな表現をとりながらも独自の道を切り開いていった。
 『Changes』でまさに「変換」を宣言したキースは、『Standards Vol.1,2』の成功によって、図らずも次の表現フォーマットを固定させる。それは、80〜90年代を通じて多くのジャズ・ファンを獲得、さらにアメリカ・ジャズの呪縛に苦しんでいた(?)ヨーロッパのピアニストたちを解放することになる、ゲイリー・ピーコック、ジャック・デジョネットとの「スタンダード・トリオ」である。

 この作品以降、スタンダード曲を、ある意味でヨーロッパ的な感性を含む表現で演奏した作品が、ヨーロッパから輩出する。空間を意識したホールトーンを基本とする録音方法と、スタンダード曲のクラシカルな解釈によって、キース・ジャレットは、意識しなったにもかかわらず、ウイントン・マリサリスの登場によって「ジャズの伝統」への回帰を意識していた当時のアメリカにおける「ネオ・クラシカリズム」に対応した形で人気を博していく。
 1990年代中盤過ぎ、精神的なプレッシャーから、立ち止まったキースだが、『Melody At Night With You』で見事復活、さらに2000年にはパリでのスタンダード・トリオによるライブ盤『Whisper Not』を発表する。

 確かに、かつての氷を凍らせるようなハイテンションと、鼓膜を緊張させる美しいピアニズムにはまだ遠いが、キースの持ち味を十分に発揮した演奏は、21世紀に向かって彼の新しい表現の可能性を感じさせる演奏だった。

 マイルスの時代が終わりを告げ、ヨーロッパから、独自の感性が押し寄せた1980年代後半、キース・ジャレットは、ピアノ・トリオにおけるビル・エヴァンス以降初めての「ザ・トリオ」を確立、前述したようにヨーロッパのミュージシャンに大きな影響を与えた。
 そうした意味ではキース・ジャレットこそは、ヨーロッパの「国替え=国家再編」の時期に生まれた新しい「時代」の象徴だったのかもしれない。

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