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Jimmy Page (ジミー・ペイジ) プロフィール

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ロックンロールに強力にヘヴィな要素を注入しハードロックの決定版といえるサウンドを創出した初期から、中〜後期のアコースティックな要素や強靭なグルーヴによる独自の音楽性まで、と レッド・ツェッペリンはハードロックの王者であると同時に、さまざまな音楽ファンを惹きつける非常に大きなスケールを持ったバンドとして70年代に君臨した。

最近でもレイジ・アゲインスト・マシーンレッド・ホット・チリ・ペッパーズなどといった、強力なグルーヴを伴ったミクスチャー勢、ヘヴィ・ロック勢の音楽性や、 オアシススタンディング・オン・ザ・ショルダー・オブ・ジャイアンツの冒頭曲に見られるギター・リフの魔力、というふうに、レッド・ツェッペリンという記号は現在でも目につくことがある。あるいは少し前でいってもキングダム・カムバッドランズリヴィング・カラーザ・カルトなどはそれぞれレッド・ツェッペリンのサウンド・スタイルを踏襲していると言われたりしていたのを思い出す。1980年の解散からかなりの年月が経つのにレッド・ツェッペリンのサウンドを踏襲するグループは、それ以降も数多く存在してきた。その中でもここ最近の流れでいえば、やはりレイジなどに代表されるサウンドに注目したいのだが、レイジらがレッド・ツェッペリン後期の自己流ファンクともいうべきものを意識していることはサウンドを聴けば明白だろう。レッド・ツェッペリンが提示した、白人バンドにおける最高峰のグルーヴ――黒人音楽におけるグルーヴの圧倒的な存在感を踏まえながら、それとは別のベクトルで極まったロック・バンドならではのグルーヴ――というものは今尚刺激的である。またそうしたツェッペリン・サウンドというものは、勿論直接的にはジョン・ボーナムらリズム隊の功績であることは確かなのだが、やはりそのアンサンブルを纏め上げていくキーとなったのは、他ならぬジミー・ペイジのギター・サウンドだったり、その稀有な作曲能力だったりしたのだと思う。以下はそんなジミー・ペイジレッド・ツェッペリンの歴史である。

ジミー・ペイジは1944年1月9日、英ミドルセックス州ヘストンに生まれた(フル・ネームはジェイムズ・パトリック・ペイジ)。エルヴィス・プレスリーの曲“ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス”でのスコッティ・ムーアのギター・プレイに刺激を受けたというペイジは、新聞配達で稼いだ小遣いで、フェンダーのコピーのグラジオーソというギターをまず手に入れるが、その後はフェンダー、グレッチ、ギブソンなども入手し、自身のギター・コレクションを充実させていった。また当時の彼はジェイムズ・バートンセゴビア、ジュリアン・ブリーム、マニタス・デ・プラタジャンゴ・ラインハルトなどロックンロールからクラシックまで幅広いジャンルのギタリストの演奏を聴きつつ、さらにブルースにも熱中していったという。そして1959年頃、そんなジミー・ペイジは若くしてプロ・デビューを果たす。当時の彼はまだ15歳だったが、ニール・クリスチャンのバンド、クルセイダーズにスカウトされたのがきっかけだった。その後のペイジはカレッジに通う一方、セッション・ギタリストの仕事も多数こなし、イミディエイト・レーベルのプロデューサーとして才能を発揮したりもしている。

1966年6月、ペイジヤードバーズに加入。それ以前にも、エリック・クラプトン脱退時にその後釜としてヤードバーズに声を掛けられていたペイジだが、そのときには抱えているセッションの仕事が多かったため、その座をジェフ・ベックに譲った、もしくはお金になるスタジオ仕事を諦める気がなかったため、バンドにベックを推薦した、ともいわれるエピソードがある。ともあれペイジヤードバーズ最後のスタジオ作 リトル・ゲームス(Little Games) とライヴ盤の録音に参加した。しかし間もなくしてヴォーカルのキース・レルフらが脱退したため、ペイジヤードバーズを建て直すことになってしまうのだった。だがこのバンド最大の危機ともいえる状況が実は70年代ロックを背負って立つことになるレッド・ツェッペリンの結成に繋がっていくのだ。

1968年、中心メンバーの抜けたヤードバーズを建て直すべく、ペイジロバート・プラント(vo./1948年8月20日生)、旧友のジョン・ポール・ジョーンズ(b./1946年1月3日生)、プラントの友人であるジョン・ボーナム(ds./1948年5月31日生)を加えて、ニュー・ヤードバーズを結成。ただこのうちイギリスの音楽業界でミュージシャンとして名の通っていたのは、ジミー・ペイジだけといってもよく、同じくセッション・マンとして活躍していたジョン・ポール・ジョーンズにしてもバンドでのステージ・パフォーマンスなどは未知数、ロバート・プラントや、彼のかつてのバンドに在籍したつてで参加したジョン・ボーナムにいたっては田舎から出てきた殆ど無名のミュージシャンに過ぎなかった。

ニュー・ヤードバーズは同年の1968年9月にスカンジナビア・ツアーを敢行。そのときの演奏の出来や観客の好反応からヤードバーズの名を使う必要がない、と考えた彼らはバンド名をレッド・ツェッペリンと改めた。その後間もなく10月に2週間(のべ時間でわずか30時間程度だったといわれる)で1stアルバム レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)をレコーディングし、米アトランティック・レーベルから発表。全英2位、全米5位という好リアクションを得、その衝撃的なハード・ロック・サウンドは大きな話題となった。デビュー作で名声を得た彼らは、1969年10月に早くも2ndアルバム レッド・ツェッペリンII(Led Zeppelin II)を発表。前作以上にヘヴィなサウンドを展開したその作品は、全米4位を記録したシングル”胸いっぱいの愛を”のヒットにも支えられながら、遂にビートルズアビーロードを押し退けて全英チャートの首位に7週間君臨し、音楽新聞の人気投票でもビートルズを抜き去り1位に。またこのアルバム、全米では300万枚以上の大ヒットを記録し、彼らの人気は早くも巨大なものとなった。

世界中にその名を轟かせたこの時期のツェッペリンにここでサウンドの変化が生じる。1970年4月から制作準備に入ったレッド・ツェッペリンIII(Led Zeppelin III)は、それまでの長期アメリカ・ツアーを含む15ヶ月間のロードに疲れ果てたロバート・プラントジミー・ペイジがウェールズの田舎の山中にあるコテージで曲作りを開始したと言われる。その牧歌的な空気も手伝ってか、またロバート・プラントバッファロー・スプリングフィールドモビー・グレイプのファンであったり、ジミー・ペイジペンタングルフェアポート・コンヴェンションなどを好んだりといったもともとの二人のアコースティック趣味が出たのか、3rdアルバムでは(LPでいうと)A面が従来からのハード・ロック路線を踏襲し、B面では大幅にアコースティック・サウンドが展開されるものとなった(これを契機にレッド・ツェッペリンはハード・ロックというスタイルに留まることなく、トラッド、レゲエ、ファンク、中近東サウンドなど、幅広い音楽ジャンルのエッセンスを取り入れた音作りをしていくことになる)。

1970年に発表された レッド・ツェッペリンIII(Led Zeppelin III) は英米のチャートで1位を記録。その後 レッド・ツェッペリンIV(Led Zeppelin IV) を1971年に発表。チャート最高位こそ全米2位、全英では11位だったものの、全米チャートに合計234週間ランク・インし続けるという大ロングセラー作となった。この作品に収録された”天国への階段”は、彼らの全ての要素が入った曲として、また音楽に対するポジティヴな意味での信仰などが歌われた名曲として1970年代を代表するロック・クラシックとして未だ人気が高く、またアルバムとしても レッド・ツェッペリンIV(Led Zeppelin IV) は名盤と呼ばれる作品となった。1973年に聖なる館(House Of The Holy)(英米1位)を発表。メロトロンを導入したり、エフェクト処理などに凝ることで、かなり実験的な作品とも言われたが、結果的にレッド・ツェッペリンのアルバム中、前作に次いで2位の売り上げ枚数を記録したヒット作となった。この後、レッド・ツェッペリンは自分達のレーベル「スワン・ソング」を設立。そこから2枚組スタジオ・アルバム フィジカル・グラフィティ(Physical Graffiti)を1975年に発表(英米1位)。米ウェスト・コースト風のサウンドやスワンプ・ロックの要素も感じさせるナンバーなども収録しているなど、ファンは彼らの音楽性の豊かさに魅せられた。

1976年発表 プレゼンス(Presence) は全英、全米チャートともに1位、また1973年のNYマジソン・スクエア・ガーデンでのライヴを収めたアルバム 永遠の詩(The Songs Remains The Same)を同年に発表しているが、そちらも全英1位、全米2位を記録し、チャートのトップ40に12週ランク・インし、サウンドの変化にも関わらず、相変わらずの高い人気を証明した。1977年に入ると彼らは大規模なアメリカン・ツアーを開始するが、7月にロバート・プラントの息子のカラックが原因不明の病気で亡くなり、ツアーは途中でキャンセルになってしまった。その後、プラントは精神的ダメージのため約1年ほどバンドの活動から離れたが、そのショックから立ち直った1978年暮れに、バンドは新作のレコーディングを始めた。それは イン・スルー・ジ・アウト・ドア(In Through The Out Door) と題され1979年に発表された。これは内容的にはヘヴィなナンバーからサンバ風のナンバーまでを含む、音楽性の幅広さを見せつけた作品となり、英米のチャートで1位を獲得した。

この後、彼らはまたツアーに始めたわけだが、1980年9月25日にバンドに突然の悲劇が訪れる。ワイルドでラウドなドラマーとして知られたボンゾことジョン・ボーナムが急逝。死因は急性のアルコール中毒だった。バンド、そしてファンや関係者も大きなショックを受けたこの事件への反応としては、後任ドラマーを迎えて活動を再開して欲しい、というファンの声もあったが、1980年12月4日、「ジョン・ボーナムを失った今、レッド・ツェッペリンとして活動を続けていくことは不可能」との声明がバンドのマネージメントから正式に発表され、レッド・ツェッペリンの12年に及ぶ活動は幕を閉じた。

バンド解散後は1982年に未発表曲、未発表テイクを集めた 最終楽章 - コーダ(Coda) をリリース。その直後ジミー・ペイジはサントラ  ロサンゼルス (1982年)を発表し、ロバート・プラントも1982年に初のソロ 11時の肖像 を発表した(その後コンスタントにソロ作を発表していった)。1984年にはプラントのプロジェクトハニードリッパーズにペイジがゲスト参加。特に後者は元レッド・ツェッペリンのメンバーが再会、と話題となり、再結成の噂も持ち上がるが、ペイジは1985年に元バッド・カンパニーポール・ロジャースらとザ・ファームを結成した。芳しい成果を上げられなかったザ・ファームは2枚のアルバムを遺し解散。ペイジはセッションや自身のソロ作発表といった活動を展開した。またその後、1990年夏のネブワース・フェスティバルで再びプラントとの共演を果たしたペイジは、レッド・ツェッペリンのリマスターCDの作業に関わったあと、元ホワイト・スネイクデヴィッド・カヴァーデイルとのプロジェクト、カヴァーデイル・ペイジを編成し、アルバム  カヴァーデイル・ペイジ(Coverdale Page) を1993年に発表。しかし結局その年末に実現した日本公演を行っただけで消滅。これはロバート・プラントとのプロジェクト、ペイジ&プラントの計画が密かに進行していたからだった。1994年4月17日、英バクストン・オペラハウスでのアレクシス・コーナー・トリビュート・コンサートにシークレットの形でペイジ&プラントが参加。ツェッペリン・ナンバーをアコースティック・スタイルで披露したペイジ&プラントは活動を本格化させた。新曲にアレンジし直されたツェッペリン・ナンバーのスタジオ・ライヴなどを加え、1994年にアルバム  ノー・クォーター (No Quarter)を発表。1995年にツアーを開始、1996年にはペイジ&プラントによる来日公演も実現した。その後1997年に大きな話題となった全盛期レッド・ツェッペリンのラジオ放送用スタジオ・ライヴ音源、 BBCセッションズ の発表を挟んで、レッド・ツェッペリン好きを公言していたシカゴのインディ大王、スティーヴ・アルビニ(現在ではプロデュース業で有名だが、自身ビッグ・ブラック、レイプマンシェラックといったバンドでも活動)のプロデュースによるペイジ&プラントの2ndアルバム ウォーキング・イントゥ・クラークス・デイル(Walking Into Clarkesdale) が1998年に発表された。また同年には 米版ゴジラのサントラ 収録曲のため、パフ・ダディジミー・ペイジがインターネットにてセッションを敢行したという話題もあった。

ジミー・ペイジは決して指が速く動くといったようなソロイストというタイプではなく、やはりそのスケール感ある楽曲を形にする作曲能力や、印象的なリフ作りの名人というような個性で勝負してきたギタリストだ。いずれもヤードバーズに在籍し、のちにロック界を背負って立つことになった英国3大ギタリストと呼ばれる3人、エリック・クラプトンジェフ・ベックジミー・ペイジを並べ、いわゆるテクニック的な面だけで彼らを比べてしまうとなると、正直なところペイジが最も分が悪いことは確かだ。ただロック・バンドという形態の中で自身の個性を活かしながら最も光り輝いたのが、ほかならぬジミー・ペイジであったことはもっと強調されてもよいだろう。レッド・ツェッペリンの作品には多くの印象的なギター・リフが残っている。オアシスの連中も好きな“移民の歌”、”胸いっぱいの愛を”や“ハートブレイカー”、後期の“カシミール”などにある、一度聴いただけで覚えてしまうほどのキャッチーさ、もしくはロック・サウンドとしての素晴らしさを感じ取るだけでそのことは解ってもらえるに違いない。またその他の部分では、自身が敬愛するバート・ヤンシュなどアコースティック・ギターの名手たちからの刺激を形にし、オープンCチューニングなどを使いつつ、民族音楽的なスパイスを効かせるなどしてレッド・ツェッペリンの音楽を豊かなものにした功績。これも見逃せない部分だ。そしてツェッペリン全盛期のステージでのカッコ良さ。現在の彼からは想像できないが(失礼!)、ダブル・ネックのギブソンES-1275を携え、エキセントリックな装束を身に纏いステージに立ったジミー・ペイジは正にロック黄金期の象徴そのものだったのだ。

多くの70年代ハード・ロック・バンドの音が、色褪せてしまうのを尻目に、レッド・ツェッペリンジミー・ペイジが奏でたギター、そしてバンド自体のグルーヴ感、名曲の数々は今も生命を保ち続けている。

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