Grateful Dead
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Grateful Dead (グレイトフル・デッド) プロフィール

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1960年代後半のヒッピーやフラワー・パワーなどに象徴されるカウンター・カルチャーの台頭の中で、その中心地となったサンフランシスコでジェファーソン・エアプレインと共にムーヴメントの象徴となったのがグレイトフル・デッドだった。とはいえジェファーソン・エアプレインがいち早く商業的な成功を収め、オーヴァーグラウンドに影響力を誇っていったのと対照的に、グレイトフル・デッドはあくまでアンダーグラウンドな素地を通し時間をかけてリスナーの心に深く入り込んでいくような存在といえた。

グレイトフル・デッドの中心人物として知られたジェリー・ガルシアは、1942年8月1日、米サンフランシスコに生まれた。ガルシアは1957年、15歳の頃からギターを弾き始めたが、1959年にパロ・アルトに移り、その頃、後にデッドの作詞を担当することになるロバート・ハンターと知り合っている。1962年になるとガルシアはバンジョーを弾き始め、フォーク〜ブルー・グラスのバンドなどでプレイし始める。それから二年後の1964年頃までにはマザー・マギーズ・アップタウン・ジャグ・チャンピオンズのメンバーとなり、そこで後のデッドのメンバーとなるボブ・ウィアーとロン“ピッグペン”マカーナンらと出会っている。

ボブ、ロンと出会いエレクトリック・バンドに転向したガルシアのバンドは、ビル・カウツネン、フィル・レッシュらを加え、新たにウォーレックスを結成。また彼らは同時期に共同生活を始めた。その後LSDを常用していたメンバー達は、ケン・キーシーのアシッド・テストに参加するなどといった出来事を経て、バンド名をグレイトフル・デッドと改め活動を本格化させる。

グレイトフル・デッドはビル・グラハム経営のフィルモア・ウエストをはじめ、アヴァロン・ボールルーム、カルーセルといったクラブ、ライヴ・ハウスで活動。地元サンフランシスコではジェファーソン・エアプレインと人気を二分するようになった。そんな彼らに目をつけ契約の話を持ちかけたのが、ワーナー・ブラザーズで、デッドはワーナーと1967年1月に正式契約。3月には早くもデビュー・アルバム グレイトフル・デッド・ファースト(The Greatful Dead) を発表した。またこの契約前後の1月にはゴールデン・ゲイト・パークで行われた大規模なイヴェント「ビー・イン」に参加。マスコミはガルシアに「キャプテン・トリップス」なる称号を与える。その後二人目のパーカッショニスト、ミッキー・ハートがバンドに加入。1968年にライヴ音源にスタジオ録音のサウンドを被せるという実験的な作品で、セカンド・アルバムとなる 太陽の讃歌(Anthem Of The Sun) を発表している。また翌1969年にはサード・アルバム アオクソモクソア(Aoxomoxoa) を発表。ただこの後者二作は商業的に成功せず、デッドはスタジオ使用料含め多大な借金を背負うことになってしまった。なおこの時期までにキーボーディストのトム・コンスタンテンがメンバーとして加入していることを付け加えておこう。

1967年のモンタレー・ポップ・フェスティヴァルや1969年のウッドストック・フェスティヴァルといった歴史的なイヴェントにも出演したデッドだったが、彼らはライヴでこそ本領を発揮する、というタイプのバンドだった。その成果ともいえるのが初のライヴ作品となる ライヴ/デッド(Live Dead) だった。1969年にリリースされた同作では、彼らのサウンドに漂う開放的な空気感やそれまでの作品では大きく展開されていなかった素晴らしいインタープレイといったものが聴かれ彼らの代表作のひとつとして現在でも親しまれている。

1970年にはCSNばりのハーモニー、アコースティック感の強い ワーキング・マンズ・デッド(Working Man’s Dead) を発表。この異色作はファンにとっては驚きの大きいものだったが、しかしながら同作は、同年発表の次作 アメリカン・ビューティ(American Beauty) とともにゴールド・ディスクを獲得(デビュー作以来)。両者は彼らの代表作の一角を担う作品となった。

またワーキング・マンズ・デッド(Working Man’s Dead) の発表前後にはサンフラワーというレーベルから Vintage Dead 、 Histric Dead という二枚のアルバムが市場に出回ったが、これらは1966年に前述のアヴァロンで収録されたライヴ音源を収録したものだった。この後1971年に正式なライヴ盤の二作目となる グレイトフル・デッド(Greatful Dead) を発表。これは同年4、5月に行われたライヴの模様を収録したものだった。

この時期にガルシアはソロ・アルバム ガルシア ボブ・ウィアーAce を制作。またガルシアはニュー・ライダーズ・オブ・パープル・セイジのデビュー作に準メンバーとして参加したりもした。

キース(key)とドナ(vo)のゴドショウ夫妻をメンバーに加えたデッドは1972年4月から6月にかけて欧ツアーを廻る。この時のステージの模様を収めたのが、同1972年中に発表された3枚組ライヴ作 ヨーロッパ‘72(Europe ’72) 。この売り上げでデッドは長年の負債を返済することができたとも言われているが、しかし一方では悲しい出来事もあった。翌1973年3月8日にオリジナル・メンバーのピッグペンが肝硬変でこの世を去ったのだ。

1973年7月、デッドはオールマン・ブラザーズ・バンドザ・バンドらと共にNYワトキンス・グレンのサマー・ジャムに参加。600個以上のスピーカー群がステージに積まれるという巨大PAシステムが話題を呼ぶ中、60万人ものオーディエンスをそのサウンドで酔いしれさせた。またこの時期デッドは自己レーベル、グレイトフル・デッド・レコードとその子会社ラウンドを設立。そこから1973年中に 新しき夜明け(Wake Of The Flood) をリリース。また翌1974年にはワーナーから 火星から来たグレイトフル・デッド(From The Mars Hotel) を発表している。両者とも全米トップ20に入るヒットとなったが、1974年10月になるとデッドはウィンターランドでのコンサートを最後に休業を宣言。同時に解散説も流れた。

しかし1975年になるとデッドは解散説を吹き飛ばすように前線復帰。 ブルース・フォー・アラー(Blues For Allah) を発表したが、これはそれまでにおけるデッド最大のヒット(全米最高位12位)となり、復活を力強くアピールした。またこの後1976年には休業前に行われたウィンターランドでの5日間のコンサートの中から厳選された音源から成る2枚組ライヴ作 凍てついた肖像(Steal Your Face) を発表している。

1972年に入るとデッドはアリスタに移籍し、同年に テラピン・ステーション(Terrapin Station) を発表。また翌1978年にはリトル・フィートロウエル・ジョージのプロデュースによる作品 シェイクダウン・ストリート(Shakedown Street) を発表した。同作を最後にゴドショウ夫妻が脱退している(キースはこの後1980年に自動車事故で他界)。なおこの脱退以前1978年9月にデッドはエジプトのカイロで行われたナショナル・アンティーク・ミュージアム・ベネフィットに出演。その機材の巨大さとともに話題をさらった。

1979年になるとゴドショウ夫妻の代わりに元シルヴァーのブレント・ミッドランドが加入し、翌1980年にアルバム ゴー・トゥ・ヘヴン(Go To Heaven) を発表。“アラバマ・ゲッタウェイ”のシングル・ヒットで若いリスナーからの人気を掴んだ一方、同年9月25日〜10月14日にかけて行われたサンフランシスコのウォーフォールド・シアター、そして10月22日〜31日にかけて行われたNYのラジオ・シティ・ミュージック・ホールでのロング・コンサートも話題を呼んだ。結成15年を記念した同コンサートは一日平均5〜6時間、長い場合には8時間にも及ぶデッドならではの演奏を披露。なお、この時の模様はアコースティック・セットを纏めた Reckoning とエレクトリック・セットを纏めた デッド・セット(Dead Set) (共に1981年発表)で聴くことができる。

この後ガルシアやウィアーのソロなどは発表されたが、デッド本体の作品は長い間リリースされなかった。ただこの時期もライヴは年間80本以上という量をこなしてはいたのだが。そして遂にデッドの久々の作品が1987年に発表された。スタジオ作としては7年ぶりとなる イン・ザ・ダーク(In The Dark) 。”タッチ・オブ・グレイ”という全米10位に入るシングル・ヒットも生まれた同作は、アルバム自体も全米6位を記録する、デッド史上最大の成功作となった。また同時期(1986年夏と1987年夏の二回)に行われたボブ・ディランとの全米ツアーも大いに話題となった。

1988年に入っても相当数のライヴをこなしていたデッドは、1989年にディランとのジョイント・コンサートの模様を収録した ディラン&ザ・デッド〜ライヴ(Dylan And The Dead) を3月に発表。その後ガルシアのソロ Almost Acoustic) などを挟み、「イン・コンサート・アゲインスト・ザ・エイズ」にジョン・フォガティトレイシー・チャップマンロス・ロボスなどと共に参加。また同年8月からは恒例のツアーという予定だったのだが、これは87年頃から問題視されていたデッドの新しいファン層による暴動まがいの行動により、各会場付近の住民を中心とした反対派からの抗議を受け中止となってしまうという出来事も起きている。これはデッドの「スケルトン・マーク」がファッションとしてブームとなるという背景の中、リスナーの世代交替によって、無茶をする若者層が入り込んできた結果、穏やかなヒッピー思想に基づく古くからのファンがデッドから離れていくという弊害が生んだ結果だった。その後同1988年10月にはアルバム ビルト・トゥ・ラスト(Bulit To Last) がリリースされている。

同作品と前後してツアーを開始したデッドは、1990年4月まで継続してライヴを行い、その音源からライヴ作を制作することを企画。しかし、同1990年7月26日にドラッグ禍でブレント・ミッドランドが死去。このため10月にリリースされた前述の企画から生まれたライヴ作 ウィズアウト・ア・ネット(Without A Net) は彼の追悼盤となってしまった。ただデッドはこの後も元チューブスのキーボーディスト、ヴィンス・ウェルニックを加えライヴ活動を継続した。

この後もアルバム発表のないまま、デッドはもの凄い勢いでライヴ活動を続けていった。1992年秋のツアーだけはガルシアの体調不良によりキャンセルとなったものの、そのライヴ本数、収益などはこの数年の間、他アーティストを引き離し、常に年間トップを独走するほどのものだった。また前後するが1991年8月16日にアオクソモクソア(Aoxomoxoa) などデッドのアートカヴァーやサンフランシスコのポスター・アートを数多く描いたリック・グリフィンが死去。 その後秋には過去のライヴ音源による作品 ワン・フロム・ザ・ヴォルト(One From the Vault,1975年のライヴ) 、翌1992年に ツー・フロム・ザ・ヴォルト(Two From The Vault,1968年のライヴ) をリリースした。

その後も相変わらず作品発表のないデッドだったが1995年、久々の新作となる Hundred Years Hall をリリース。しかしながらこのリリースと時期を同じくして悲劇は起こった。デッドの中心人物というのみならず、サンフランシスコ・ヒッピー・ムーヴメントの守護神的存在、60年代アメリカの象徴といえたジェリー・ガルシアが8月9日に永眠してしまうのだ。アメリカでは多くの文化人らが大きなカルチャーを生んだジェリー・ガルシアの死を悼み追悼した。

その後ミッキー・ハートはじめ残りのメンバーがグレイトフル・デッドとしての活動を続行する、と宣言したが、結局それは実現せず、バンドはそのまま解散となった。

冒頭でも少し触れたように彼らの存在には独特の解りにくさというようなものがあったが(ドラッグ絡みの要素が濃厚という部分も大きいと思うが...)、逆に彼らの音楽のそうした不思議な魅力、わけても作品中にはそれほど反映されないライヴでの魅力、といったところに惹かれたリスナーは、「デッド・ヘッズ」といったものに代表される熱狂的なファンとなっていった。簡単に説明すると「デッド・ヘッズ」とはグレイトフル・デッドのツアーをTシャツや小物、非公式ライヴ・テープ(海賊盤とはいえずデッド自身がファン同志のテープ・コピーを勧めていた)などを売って必要最小限の生計をまかないつつ、ツアー地にテントを張ってバンドと一緒に動くというファンの集団、コミュニティのようなもの。これがあたかも民族大移動のようにバンドを中心にぞろぞろと大陸を移動していくという。話を戻すと、そうしたデッドの魅力を乱暴にもひとことで纏めてしまうと独特の「ゆるやかさ」といった感触に集約されているのではないだろうか。ヒッピー・ムーヴメントから地続きのコミュニティ思想を姿勢の基盤として、ときに現代技術を駆使しつつ(巨大なPAシステムやコンピューターへの取り組みなど)、ときにカントリー、ブルース、ロックンロール、ジャズなど多様な音楽性を柔軟に取り込みながら演奏する。そうしたデッドのモダンさはファンには堪らないものだろう。

また最後に余談ながら、近年日本でも「デッド・ベアー」という愛らしいカラフルな熊のぬいぐるみ達が雑貨店などを賑わしたが、これなどもじわじわとクチコミで人気を集めていったという感がある。そんなところにも押し付けがましいマーケティング戦略などとは無縁のデッド的思想が生きているのではないか、と思わず深読みしたくなるのがデッドというバンドの魅力なのだと思う。

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