Galaxie 500

Galaxie 500 (ギャラクシーファイヴハンドレッド) プロフィール

Galaxie 500 | プロフィール | CD、DVD、ブルーレイ(BD)、ゲーム、グッズなどを取り扱う【HMV&BOOKS online】では、コンビニ受け取り送料無料!国内最大級のECサイトです!いずれも、Pontaポイント利用可能!お得なキャンペーンや限定特典アイテムも多数!支払い方法、配送方法もいろいろ選べ、非常に便利です!

1991年、来日直前の突然の解散から長い年月が経つが、今も信奉者の心の中に生き続けるギャラクシー500。バンドとは思春期的なものだ、とは誰が言った言葉だか忘れたが、解散後ギャラクシーの存在について考える時、思い起すのがこの言葉だ。その後、ルナを立ち上げメジャー・カンパニーから作品を発表、よりプロフェッショナルたろうとするディーン・ウェアハムにとっては、ギャラクシーはそのようなものだろうし、デーモン&ナオミにしたらギャラクシーのままでプロフェッショナルなミュージシャンとしてやっていくつもりだっただろう。しかし、ギャラクシーは結果プロフェッショナルなバンドになりかけるところで、空中分解してしまった。3人がそれぞれ感じていただろうそのバンドでの特別な瞬間は、そうして永久に「蒼い記憶」として封印された。おそらく多くのリスナーにとっても。

ハイ・スクールが一緒だったディーン・ウェアハムとデーモン・クロコウスキーはボストンのケンブリッジにある大学に入学してバンドを組んだ。ディーンがギター、デーモンがドラム、またハイスクール時代の友人がベースだった。デーモンの母親がプロのジャズ・シンガーだったこともあって、デーモンはそれまでにピアノとギターを習得していたがドラムを本格的に叩いたことは無かったし、ディーンはギターについて殆ど無知だったという。レパートリーはセックス・ピストルズジョイ・ディヴィジョンクラッシュ、スパイダーマンの主題歌、そしてデーモン曰く、出来の悪いオリジナル曲が少々。そしてこれもデーモンの証言によると、学校で行なわれるバンド・バトルでは、どの部門でも最下位、だったそうだ。

ナオミ・ヤンが彼らの大学に入ってくるのは翌年のことだった。バンドには演奏では関わらず、ポスター作りや横断幕を作ったりして貢献していたという(のちに現在廃盤のギャラクシー500ボックスのアート・ワークなどを手掛けたのがナオミだ)。3人が大学を修了すると、デーモンとナオミは大学院に進み、ディーンはニュー・ヨークへ移り、ニュー・ヨーク大学の図書館で働くことになった。

離れてはいたが、それでもお互いに行き来しながらディーンとデーモンはバンドを続けた。バンドに不満持っていた二人は、新バンドを結成することにし、「ヴィレッジ・ヴォイス」誌にメンバー募集を載せ、オーディションを行なったが、気に入ったベース・プレイヤーはなかなか見つからず二人は気落ちしていた。そんなうちにナオミが、もしいい人が見つからなかったら自分がベースを弾く、と突然言い出したことがキッカケとなり、のちにギャラクシー500と呼ばれることになるグループは始まった。

ディーンの実家の空き部屋でリハーサルを重ねた彼らのサウンドは、ナオミの加入によってかつてないほど良くなったという。そのうちにディーンはボストンに戻り、バンドを続けると表明。そのお別れパーティとして’87年夏マンハッタンにあったディーンとルームメイトの部屋でデビュー・ステージ(!?)を行なった。またこの頃初のデモ・テープ録音を行なっている。ディーンがボストンに引越すと、デーモンとナオミは大学院での生活そっちのけでバンドの為に時間を割くことになる。’87年10月、ボストンにある「チェッツ・ラスト・コール」で本当のデビュー・ギグが開かれる。

’87年暮れ(あるいは’88年初頭)に彼らは前記したデモ・テープよりも「もっとましなレコーディング」をしようということになり、アンダーグラウンドでは知られたノイズ・ニューヨークというスタジオに赴く。ノイズ・ニューヨークは、自身B.A.L.L.というバンドなどをやりつつ、シミー・レーベルを主宰するクレイマーという男が所有するスタジオ。新曲"タグボート"、 "キング・オブ・スペイン"等を持って録音に行ったギャラクシーはクレイマーがエンジニアを務めたその曲群の出来を気に入り(ドラッグでヨレヨレのクレイマーはヴォーカルやサウンドにたっぷりとリヴァーヴをかけ、後にギャラクシーのサウンドに欠かせない要素をこの時、早くも提供していた)、 "タグボート/キング・オブ・スペイン"を7インチ・シングルとしてリリース。因みにこのシングルは、ソニック・ユースサーストン・ムーアが選ぶ、’88年のベスト・シングルとなった。

’88年初夏、ギャラクシーはノイズ・ニューヨークで再びレコーディング。これが結局、1stアルバムの トゥデイ となった。ペナペナで殆どエフェクトの掛かっていない「素」のギターが漂い(後付けで響きを出していると思われる)、ディーンのハイトーンな、痛々しいニール・ヤングを思わすヴォーカル(ディーンは常に、歌いたくないんだが、仕方がなく歌っていると言っていた)、またそこに、これまた最小限のリズム隊のヨレたノリが加わるというこの作品は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの3rdにあるような静かなるメランコリアや、良質の米アンダーグラウンド勢に通底するヒリヒリした感触、あるいは’80年代初期のポスト・パンク勢とも共通する感触を有していた。そして、言われると納得とも驚きとも言えるのだが、この時の録音は殆どが一発録りで、スタジオでレコーディングに費やした時間はなんと2日足らずだったという。

’88年10月トゥデイ がリリースされると、イギリスのラフ・トレードから契約の話が来る。またこの頃から頻繁にイギリスに渡ってギグを行なうようになり、この時点から後々までギャラクシー500は本国アメリカで無視され続け(地元ボストンでさえも!)、ヨーロッパでの人気と評価を定着させていくのだった。

’89年秋、2ndアルバムの名作 オン・ファイア リリース。名曲"ブルー・サンダー"や"ホェン・ウィル・ユー・カム・ホーム"収録の本作は1stから見られたクレイマーによるサウンド作り(アレンジのアイデアも出していたという)とギャラクシー、ディーンならではの簡素だが、ツボを押さえた楽曲の美が高いレベルで結びついた傑作となった。

また、この2ndは、当時イギリスのラフ・トレードと契約のあった日本のレコード会社からリリースされ、ギャラクシー500の名はある種のロック・ファンの間にかなり広まった。そしてまたオン・ファイア も殆どがワン・テイクで録られ、一週間ほどでレコーディングされた事が話題となり、日本の音楽誌がそのことをインタビューで尋ねると、彼らはそろって事も無げに1stよりは時間がかかったな、と言うだけだった。

アルバム発表後、精力的にヨーロッパ、イギリスでのツアーを重ねた彼らは、かの地では不動の評価をモノにした。’90年の春、ディーンはバンドが拠点としていたボストンを離れ、ニュー・ヨークに再び住むようになった。そんな経緯から3rdアルバムの作業はボストンとニュー・ヨークを行き来しながら行なわれ、レコーディング自体は夏頃、またもノイズ・ニューヨークで行なわれた。ディーンの回想によると、この時のレコーディングは緊迫した雰囲気に包まれていたというし、バンド内では主に運営面での口論が絶えなかったと、一方でデーモンが語るように、バンド特有の諸事情が絡んで、この頃バンド内の関係は冷め切っていたと想像できる(よく言われたようにデーモンとナオミが公私ともにパートナーだという事による原因もあるだろうが、バンドの解散の原因をこれ一つと決定することは不可能だ)。

’90年秋、3rdアルバムで結果的にラスト・アルバムとなってしまった ディス・イズ・アワ・ミュージックリリース。冒頭曲で、以前カヴァーしたニュー・オーダー "セレモニー"辺りと同種の感覚を持ったオリジナル曲を披露するなど、前作までとはやや異なる感触のこの作品。サウンド処理の面でも、より歌を伝えようとするかのようなクリアーな音処理が印象的な作品だ。ディーンの歌が心なしかはっきりと主張している。

’91年3月、コクトー・ツインズの前座を務めるツアーを廻るが、ディーンが脱退をその他二人に告げたことでこのツアーがギャラクシー500の最後のツアーとなった。ツアーの最終日は地元ボストン。結局、ツアー最終日の翌日、彼らは最後のライヴを行ない、バンドの活動は終止符を打つ。初の日本公演の直前だった。

なお解散後のギャラクシー500のリリースには、現在までのところ、先述したボックス・セット、ベスト盤メルト・アウェイ、同種のコンピレーション盤 Portable、ライヴ盤ライヴ1990(Copenhagen)などがある。

Luna
ギャラクシー500解散後、ディーン・ウェアハムは元チルスのJustin Harwood(b.)、元フィーリーズのStanley Demeski(ds.)とルナを結成。 '92年Lunapark、'94年Bewiched、'95年Penthouse(この作品後Stanley脱退)、'97年Pop Tentとコンスタントにメジャーのワーナー系列エレクトラからアルバムをリリース。'99年には英ベガーズ・バンケットからDays Of Our Nightsをリリース。尚アルバム未収録の名カヴァーEP(セルジュ・ゲーンズブール&ブリジット・バルドーの「ボニー&クライド」、ドノヴァンの「シーズン・オブ・ザ・ウィッチ」)も各種あるので要チェック。  

Damon & Naomi
ギャラクシー500解散後、デーモン・クルコウスキーとナオミ・ヤンはデーモン&ナオミを組んで作品を発表。'92年にEPなどを纏めたMore Sad Hits、'95年Wondrous World Of Damon & Naomi、'98年Playback Singersとリリースを続けている。どちらかといえばルナよりもこちらの方がギャラクシー直系のサウンドとも言えるだろうか。因みにこのユニットのアートワークはナオミが手掛けている。また'94〜'96年頃にはマジック・アワーというバンドに参加し、二人でリズム隊を務めた。

%%message%%