Edith Piaf (エディット・ピアフ)

Edith Piaf (エディット・ピアフ) プロフィール

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没後37年を経て、今もなお語り継がれ、また今日まで多くのアーティストたちに影響を与え、生涯愛を歌い続けたひとりのシャンソン歌手、エディット・ピアフ。

1915年、フランスはパリのヴェルヴィル通りにあるアパルトマンにて生まれる。父親はサーカス団の軽業師、そして母親は歌手であった。決して裕福とは言えない家庭に生まれたエディットであったが彼女が2歳の頃に病気の療養の為に祖母のいるノルマンディーへと移った。そこでは娼屋を営む祖母マダム・ルイーズをはじめそこで働く女性たちにに可愛がられ、そこでは裕福な生活を送っていたらしい。だが6・7歳の頃には再び父親と放浪の旅芸人の生活を強いられる。感動的な物語として伝記に記されている出来事がある、ある厳しい冬、父親のガシヨンが病気になり、家もお金もない環境で当時10歳にも満たぬエディットは通りで「ラ・マルセーエズ」を歌う。すると父親の稼ぎよりも多くの金が集まったという話しであるが、天性の才能を持った小さなスターの誕生である。

〜ルイ・ルプレ〜
いつもの様に路上で歌っていたエディットに一人の紳士が声をかける、その紳士はナイト・クラブ ”ジャニーズ”の経営者ルイ・ルプレであった。通り掛かりに耳にしたエディットの歌に感動し彼女をスカウトしたのである。しばらくはこのミュージック・ホールでお上品なお客を相手に歌い華やかなる日々を送り、またルプレはエディットをことの他かわいがった。だがルプレはジャニーズにたむろする不良たちに射殺されてしまうという事件が起きた。出会って間もなくして良き理解者を失ってしまったエディット。

〜レイモン・アッソー〜
ルプレの死後もエディットはしばらく兵隊たちを前に映画館等で歌っていた。そして傷心の中パリに戻り同じくルプレの元でデビューしたレイモン・アッソーという人物に出会う、彼はエディットをスターにすべくパリのミュージック・ホール、A・B・Cの舞台に立たせた。その頃のパリではティノ・ロッシ、リュシエンヌ・ボワイエ、シャルル・トレネ、ジョゼフィ−ヌ・ベイカー、ジャン・リュミエール等が活躍を始めた頃である。何かにつけてもアッソーはエディットに愛を注いでいた、彼女も又彼を必要としていたという。当時エディットが歌っていたレパートリーの歌詞もすべてアッソーが書いたものである。だがそのアッソーも彼女との別れの時が訪れるのだが.....。

〜ジャン・コクトオ〜
ジャン・コクトオもエディットを絶賛する一人であった。そしてエディットの恋人であるポール・ムリッスという男とエディットはコクトオの「つれない美女」という舞台にて共演する事になる。時はナチス占領下のパリ、ドイツの捕虜収容所にて捕虜たちの前でも歌い、まるで映画のような捕虜脱出作戦を実行させもした。

〜イヴ・モンタン〜
この頃にはエディットは大スターとなっていた、そしてイヴ・モンタン(※)と出会う、彼の為にシャンソンまでも書いているのだが、モンタンの映画出演の話しや一人前の歌手として成長して行く彼に嫉妬を感じたのか、それとも独占欲にかられてしまったのか、モンタンは取り巻きからは外されてしまうのである。

〜ピアフ、アメリカ進出のはなし〜
彼女はシャンソン仲間とアメリカ制覇を目指したのであるが、フランス語を、シャンソンを理解できない聴衆に対してある決心をするのであった、それは英語を習得しての再度のチャレンジ、不屈の精神をもやしての結果再びニューヨークで最も上品なクラブといわれる”ル・ヴェルサイユ”にて公演を行う事となった。

〜マレーネ・ディートリッヒとの運命的出会い〜
ニューヨークで出会ったドイツ人であるディートリッヒ(※)とフランス人であるピアフ。ディートリッヒはピアフの歌を聴き大きな感動を得たという、また共に「バラ色の人生」を歌う生涯固い絆によって結ばれたもの同士。

〜シャルル・アズナヴール〜
アズナヴールが書いた曲で「私は日曜日が嫌い」という曲がある。この曲はピアフの為に書かれた曲であるのだが、ジュリエット・グレコにあげてしまっている。ピアフはアズナヴールに対してその才能を認めなかった。

1949年、夫でりボクサーであったマルセル・セルダンが飛行機の墜落事故によってこの世を去る。後ピアフは酒と麻薬に溺れる人生を送る事になる。

〜ジョルジュ・ムスタキ〜
1957年、ピアフとジョルジュ・ムスタキは出会う。ムスタキは彼女の堕落して行く様をみてうんざりし、ピアフはムスタキをののしるようになり....結局ピアフは彼の事を捨ててしまう事になる。

後のピアフは人生を転がるがの如く色々な災難(交通事故に出合い、いくつかの手術(これは彼女の薬のせいとみられている』を受け、その身を滅ぼしつつあった。

それでもピアフは1960年12月にオランピア劇場に立ち、そのステージでは大成功を収めている。しかし彼女には死が近づいていた。

1963年10/14、ピアフの葬儀がペール・ラシェール墓地にて行われた。奇しくも同じ日にコクトオの葬儀が行われていた。ピアフほど愛にまみれた人生が他に存在するであろうか。ピアフの歌を聴いていると涙が止らなくなるのはそのせいなのだ、魂から搾り出すようなその歌は永遠に語り継がれて行くであろう。

(参考文献)
モニク・ランジュ 著/榊原晃三 訳
「ピアフ・愛の真実」

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