1935年突然ベニーが亡くなり、ベイシーはバンドをでることになる。程なく同じバンドのメンバーと彼自身のバンド(The Barons Of Rhythm)を結成し、カンサスシティの「レノ・クラブ」を根城として活動を始めた。この当時のバンドは9人編成でラジオにレギュラーの時間を持っていた。ハーシェル・エヴァンスを追って入団した24歳の若者は、当時既にナンバ・ワン・テナーにのしあがった“レスター・ヤング”だった。たまたまこれを聴いていたジョン・ハモンドが彼のもとに跳んでいって契約することになった。ただ、既にレスターにはデッカとの契約があったためColumbiaとの契約は1939年になってからだった。