Count Basie
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Count Basie (カウント・ベイシー) プロフィール

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ウイリアム“カウント”ベイシーは、1904年8月21日ニュージャージー州に生まれた。母からピアノを習い、長じてからはボードビルの一座のピアニスト兼俳優として舞台に立っていた。ある日、二日酔いの頭で聴いたウォルター・ペイジのバンドの音にすっかりノックアウトされたベイシーはこのバンドのメンバーと知り合いになった。ホット・リップス・ペイジもその一人だった。次に彼ら“ブルー・デヴィルズ”(ペイジのバンド名)と会ったのは、彼らの本拠地のオクラホマで、ベイシーもツアーに来ていた。偶然出会ったこのブルー・デヴィルズでベイシーは二日間「トラ」でピアノを弾いた。こうしてこのバンドに入りたい気持ちが大きくなったベイシーはペイジに空きが出たら連絡をくれるように頼み、ペイジもベイシーを気に入って連絡先を教えてくれた。一方、ボードビルの一座は解散し、ベイシーは無声映画の音楽担当としてストライド・ピアノで伴奏をつけることになった。もちろん、この頃のアイドルはファッツ・ウォーラーで彼を手本として練習していたようだ。

 1928年ベイシーは念願かなって、ジミー・ラッシングを擁する“ウォルター・ペイジのブルー・デヴィルズ”に参加するが、はやくも1929年にはそこを辞して、ベニー・モーテンのバンドに参加する。やがて,ベイシーは“モーテンズ・カンサス・シティ・オーケストラ”のピアニストとして認知されるようになる。この頃のモーテン・バンドの音楽性はほとんど、後のカウント・ベイシー・バンドに近いものになっていた。当時はカンザス・シティも遊興の街となっており、多くのクラブが毎日ジャズを演奏していてミュージシャンたちはクラブの演奏とジャム・セッションに明け暮れ、次第にジャズは進化を遂げていった。ベイシーはセカンド・ピアニスト兼アレンジャーとして次第に重きを置かれる存在になっていった。この当時のこのバンドは、実質は正式な編曲者でありバンドメンバーのエディ・ハーハムと、一応はスタッフ・アレンジャーであるベイシーが中心となって運営されるようになっていった。

 1932年Victorに録音された「モーテン・スイング」はこの当時のカンザスシティの音楽の典型を示した演奏で、ベイシー・バンドの行く末を予感させる演奏だった。やがて、ベイシーがかつて働いていた「エルボン・シアター」が新装オープンし,モーテンのバンドも出演することになったが、経済的にはうまく行かず結局モーテンがバンドを出て、皆の推薦によってベイシーがバンド・リーダーとなってバンドが継続されることになった。

 1935年突然ベニーが亡くなり、ベイシーはバンドをでることになる。程なく同じバンドのメンバーと彼自身のバンド(The Barons Of Rhythm)を結成し、カンサスシティの「レノ・クラブ」を根城として活動を始めた。この当時のバンドは9人編成でラジオにレギュラーの時間を持っていた。ハーシェル・エヴァンスを追って入団した24歳の若者は、当時既にナンバ・ワン・テナーにのしあがった“レスター・ヤング”だった。たまたまこれを聴いていたジョン・ハモンドが彼のもとに跳んでいって契約することになった。ただ、既にレスターにはデッカとの契約があったためColumbiaとの契約は1939年になってからだった。

 ベイシーのバンドには次第にバック・クレイトン、スウィート・エディソン、ディッキー・ウェルズ、ジミー・ラッシングとキラ星のメンバー達が揃ってきた。『ザ・ベスト・オブ・アーリー・ベイシー』は1937年から1939年までの演奏から集められたアルバムで、この当時のベイシー・バンドのスタイルがわかる。やがて、Columbiaに移籍したベイシーは歴史に残る名演を次々と生み出す、Columbia時代の作品は『ベスト・オブ・カウント・ベイシー』として聴ける。

 その後、40年代後期からバンド経営は苦しくなり50年代初頭にはバンドは解散縮小を余儀なくされ、ベイシーは中編成のバンドでこれを乗りきることにする。やがて、ノーマン・グランツがバンド再興に向けて手を差し伸べてくれ、クレフ、ヴァーヴから彼らの演奏が盛んに発売されるようになる。メンバーは大幅に入れ替わり、編曲もニール・ヘフティ、クインシー・ジョーンズ、フランク・フォスターなどの若手が担当、やがて70年代に入るとサミー・ネスティコがその任を担った。

 ルーレットに移ったベイシーは『アトミック・ベイシー』で爆発的な演奏を聴かせ、60年代に入ってからも日本の学生バンド御用達の『ストレイト・アヘッド』など、その時々でいい作品を作り出している。1972年にはグランツがPabloレコードでジャズ界に復帰し、再びコンビでのアルバム制作が始まった。世界ツアーとアルバム発売がうまくリンクしたプロモーションのお陰でベイシーのバンドは再び大きな名声を獲得していった。サミー・ネスティコのアレンジによって録音された『ウォーム・ブリーズ』はスウィート・エディソン、ソニー・コーン、エリック・ディクソンを含むメンバーによるベイシー健在を印象付ける作品だった。

Pabloではトリオ演奏やオスカー・ピーターソンとの共演など興味深いプロジェクトが録音されており、ベイシーの音楽的な可能性をさらに大きく広げて見せたグランツのプロデューサーとしての先見性がベイシ−の様々な姿を見る機会を我々に残してくれた。

 車椅子での来日を含め最後まで現役で居続けたウイリアム・カウント・ベイシー、1984年4月26日ガンのため死去。バンドはサッド・ジョーンズ、フランク・フォスター、そして、近年1995年からはグローヴァー・ミッチェルが率いており、近作『カウント・ベイシー・オーケストラ・プレイズ・デューク』は、デューク生誕100周年の1999年度グラミー賞を受賞した。これが17個目のグラミーだった。

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