Chicago

Chicago (シカゴ) プロフィール

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30年以上のキャリアを誇るものの、人気の並が激しく、過去何回もの危機を乗り越えて活動を展開してきたシカゴ。当初は硬派なブラス・ロックと呼ばれ、のちにミドル・オブ・ザ・ロードなバラードなどを得意とするポップ・バンドとしても成功を収めた彼らの軌跡は、ショウビズ界の荒波を潜り抜けて創作を続けることの困難さを、身を持って示してくれているが、逆に言うとそれだけのしたたかさを彼らが持ちえているとも言えるし、メンバーが何人も替わってもバンド名の威光が今だ神通力を持ち得ているのは稀有な例だと思う。

シカゴの前身ザ・ミッシング・リンクスは、当時デ・ポー大学の学生だったウォルター・パラザイダー、テリー・キャスらによって60年代中期に結成された。やがてそこに同大学出身のダニエル・セラフィン、ロバート・ラム、ジェイムス・パンコウらが加入し、彼らはポマードで頭を固めたヘアースタイルで鮫皮のスーツを着てステージに立つようになった。その後、ミッシング・リンクスは音楽スタイルを変え、ザ・ビッグ・シングと名乗るようになるが、この時点で時代は1967年となっていた。まもなくベース、ヴォーカルのピーター・セテラを加えた彼らは、シカゴの原型となるバンドとなっていった。

同1967年に、同じくデポール大卒で、ザ・ビッグ・シングと同じくシカゴ出身のバッキンガムスや英国出身のチャド&ジェレミーを手掛けていたプロデューサー、ジェイムス・ウィリアムス・ガルシオに巡り遭ったバンドは、レコーディング・アーティストとしてデビューできるチャンスをものにした。ビッグ・シングの可能性を見出したガルシオは、彼らのマネージャーに就任し、彼らを自費でロサンゼルスに住まわせ、さらに仕事を捜して廻ったのだ。この頃グループ名はビッグ・シングからシカゴ・トランジット・オーソリティに変更されている。

シカゴ・トランジット・オーソリティは、ロサンゼルスのクラブ、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーに出演するなどして当地にて根強い人気を誇るグループとなていた。そうした人気を背景に、グループは、バッキンガムスブラッド・スウェット&ティアーズなどの仕事でコロンビア・レコードとコネクションのあるガルシオの助けもあって、同レーベルと契約。デビュー・アルバム シカゴの軌跡(Chicago Transit Authority) を1969年に発表。プロデューサーはやはりジェイムス・ウィリアム・ガルシオだった。ここでのブラスをフューチャーしつつ、インプロヴィゼイションなどを盛り込んだ新鮮なサウンドは、同時期のブラッド・スウェット&ティアーズらとともに「ブラス・ロック」などと呼ばれ、60年代後期に盛り上がった「ニュー・ロック」の旗手として人気を博すことになった。またこの作品で顕著なのは“いったい現実を把握している者はいるのだろうか?”や“流血の日”、“1968年8月29日シカゴ、民主党大会”などといった政治性、メッセージ色の濃い作風で、これも大きな話題となった。結果的にこの作品は全米最高位17位をマークし、さらにゴールド・ディスクを獲得するというヒット作となった。

この後グループ名のシカゴ・トランジット・オーソリティは、当時のシカゴ市長に訴えられ、シカゴという短縮した形となったが、彼らは翌1970年にセカンド・アルバムとなる シカゴと23の誓い(Chicago) を発表。同作もデビュー作同様2枚組LPとして発表され(この後3作が複数枚のLPとなった)、シカゴは「アルバム・アーティスト」という印象を強くアピールしたが、一方でこの二作目からはシングル“ぼくらに微笑みを”、“長い夜”の大ヒットが生まれ、シングル・チャートでの活躍も見せることとなった(このヒット後、ファースト・アルバムからの楽曲もシングル・カットされヒットを記録)。

サード・アルバム シカゴIII は1971年発表。予約だけでゴールド・ディスクを獲得。大きなシングル・ヒットはなかったもののアルバム自体はチャート2位まで上昇した。また同年発表の通算4作目となる シカゴ・アット・カーネギー・ホール(Chicago At Carnegie Hall)は、初のライヴ作。前三作の二枚組を超える四枚組LPとして発表された。翌1972年に初めて複数枚LPではないアルバム、通算5作目の シカゴV(Chicago V)を発表。そしてこの辺りから、いわゆるブラスをフィーチャーした力強いサウンドとメッセージ色の濃い作風からソウル、ポップス色の強い作風へと移行している。そうしたことも関係したか、同作シカゴV(Chicago V)シカゴにとって初の全米ナンバーワン・アルバムとなり、また同作収録のシングル“サタデイ・イン・ザ・パーク”も全米3位のヒットとなった。また同1972年に二度目の来日を果たしたシカゴは、6月の大阪公演のライヴの模様を収録した シカゴ・ライヴ・イン・ジャパン(Chicago Live In Japan) を日本のみでリリースしていることも付け加えておこう。

この後のシカゴはヒット・チャートの常連となる活躍を見せるビッグ・グループとなった。1973年 遥かなる亜米利加(ChicagoVI) 、1974年 市俄古への長い道(ChcagoVII) 、1975年 未だ見ぬアメリカ(ChicagoVIII) と年一作の割合で、これらの作品を次々と全米ナンバーワンに送りこんでいったのだ。因みに5作目以降の彼らの音楽性はよりポップ色を強め、コーラスを重視した作りになっている。1975年初のベスト盤 偉大なる星条旗(Chicago IX Chicago’s Greatest Hits) をリリース。翌1976年に カリブの旋風(シカゴX) を発表。この中からは“愛ある別れ”というバラード・シングルが彼らにとって初のナンバーワン・ヒットに輝き、同年のグラミー賞で「最優秀ポップ・グループ賞」を獲得する栄誉にも恵まれた。そして、この“愛ある別れ”以降、シカゴにとってロマンティックなバラード、というのがひとつの看板となっていくことはご存知の通り。

1977年 シカゴXI(ChicagoXI) を発表。同作からは“朝もやの二人”のヒットが生まれたが、しかしグループにとって大きな転機もこの時期に訪れた。初期からの中心メンバー、テリー・キャスが翌1978年に拳銃の暴発事故で死亡。テリーの後任にはドニー・デイカスが入り、グループは存続することになるが、またプロデューサーもこの頃、育ての親といえるジェイムス・ウィリアムス・ガルシオからフィル・ラモーンへ交替という重要な出来事が起こっている。フィル・ラモーンのプロデュースで同1978年に ホット・ストリート(Hot Streets) を発表。ビー・ジーズをゲストに迎えるなど当時のディスコ・ブームの影響も反映した同作品。しかしこの時期から彼らの人気は下降線を辿り始める。1979年発表 シカゴ13(Chicago 13)はセールス的に全く奮わず(ドニーが早くも脱退)、また1980年に発表された シカゴ14(Chicago XIV)も同じく失敗。結果として、翌1981年に二枚目のベスト盤 シカゴ・グレイテスト・ヒッツ(Chicago Greatest Hits, Volume II) をリリースしたシカゴは、古巣のコロンビアを離れることになった。

フル・ムーン・レーベルに移籍したシカゴは、ビル・チャンプリンをギターに迎え、またプロデュースをデヴィッド・フォスターに依頼し、1982年 ラヴ・ミー・トゥモロウ(シカゴ16) (Chicago 16)を発表。この二人を原動力にして作り上げられた同作品は起死回生のヒットとなった。映画『青い恋人たち』主題歌、“素直になれなくて”が6年ぶりのナンバーワン・ヒットとなったのだ。1984年、前作同様デヴィッド・フォスター制作の シカゴ17(Chicago 17)を発表。ここからは“忘れ得ぬ君に”、“君こそすべて”がヒット。前線に返り咲いた存在をリスナーにアピールした。

しかしここでいきなり、また彼らにとって大きな転機が訪れた。グループのフロント・マンでソングライター/ヴォーカルのピーター・セテラが、1985年6月に脱退してしまうのだ(ピーターは脱退前に一枚ソロを出していたが、この脱退後、ソロ・アーティストとして本格的な道を歩み始めた)。

シカゴはこの後ピーターの後釜に当時弱冠24歳のジェイソン・シェフを加入させ(ジェイソンは数々の有名なセッションに参加してきたベテラン・ベーシスト、ジェリー・シェフの息子であり、本人もまたセッション・ミュージシャンとしてや、キーンで活躍していた人物)、1986年 シカゴ18(Chicago 18)を発表。この中から二枚のヒット(“長い夜”再演含む)を出したシカゴは、1988年にデヴィッド・フォスターからロン・ネヴィソン/シャス・サンフォードにプロデユーサーを替えて、シカゴ19(Chicago 19)を発表する。同作品は看板のピーター・セテラが脱退したことをもはや忘れさせるような勢いでヒットを生み、シカゴは健在ぶりをアピールする作品となった(“リヴ・ウィズアウト・ユア・ラヴ”、“ルック・アウェイ”、“ユー・アー・ノット・アローン”などがヒット)。

1989年に久しぶりとなる来日公演を行ったシカゴは、新たにギタリスト、ドゥエン・ベリーを加え8人編成のグループとなっていた。また同年12月にはベスト盤でのちに20作目と数えられた グレイテスト・ヒッツ (Greatest Hits: 1982-1989)を発表。この後オリジナル・メンバーのダニエル・セラフィン脱退(後に解雇と判明)という出来事に見舞われるも、1991年に シカゴ21 (Chicago 21)を発表。

しかし、この作品の低セールスのおかげで、シカゴはまたも活動を困難にしていくことになる。解雇となったダニーからバンド側に対する訴訟問題も大きかったが、最も試練となったのは発表予定まで出ていた新作 Stone Of Sisyphus の発売中止だった。かつてのような売れ線を要求するレーベル側と、より発展的な展開を目指したいというバンドとの対立…これは結果的にフル・ムーン・レーベル離脱ということで決着を見た。

新たにジャイアント・レーベルと契約したシカゴは、エアロスミスボン・ジョヴィのプロデューサーとして知られるブルース・フェアバーンを迎え、さらにエアロスミスジョー・ペリージプシー・キングスルイス・ミゲルといった多彩なゲストを迎えながらアルバムを制作。これが1995年の ナイト・アンド・デイ〜ビッグ・バンド(Night And Day: Big-Band で内容のほうは何と、彼らのルーツといえるビッグ・バンド・ジャズによるカヴァー中心の音楽だった。

その後彼らは1997年に Heart Of Chicago 1967-1997 、1998年に Heart Of Chicago, Vol. 2: 1967-1998 という二枚のベスト盤を発表(23、24作目に数えられる)。1998年に25作目となる クリスマス・アルバム(Christmas Album) を、1999年に26作目となる ライヴ・アルバム(Live Album)を発表し現在も活動を続けている。

ブラス・ロックの旗手からヒットを連発する中道ポップス路線へ、といった中で、酷な言い方になるが、どう考えてもシカゴの全盛期は既に過ぎている。そうしたことで新作で新たなファンを増やしているとは思えないシカゴではあるが、彼らが全盛期に残した数々の音源は、ロック史の中でも特にユニークな個性を持った楽曲として称えられるべきものに違いない。

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