サード・アルバム シカゴIII は1971年発表。予約だけでゴールド・ディスクを獲得。大きなシングル・ヒットはなかったもののアルバム自体はチャート2位まで上昇した。また同年発表の通算4作目となる シカゴ・アット・カーネギー・ホール(Chicago At Carnegie Hall)は、初のライヴ作。前三作の二枚組を超える四枚組LPとして発表された。翌1972年に初めて複数枚LPではないアルバム、通算5作目の シカゴV(Chicago V)を発表。そしてこの辺りから、いわゆるブラスをフィーチャーした力強いサウンドとメッセージ色の濃い作風からソウル、ポップス色の強い作風へと移行している。そうしたことも関係したか、同作シカゴV(Chicago V)はシカゴにとって初の全米ナンバーワン・アルバムとなり、また同作収録のシングル“サタデイ・イン・ザ・パーク”も全米3位のヒットとなった。また同1972年に二度目の来日を果たしたシカゴは、6月の大阪公演のライヴの模様を収録した シカゴ・ライヴ・イン・ジャパン(Chicago Live In Japan) を日本のみでリリースしていることも付け加えておこう。
しかし、この作品の低セールスのおかげで、シカゴはまたも活動を困難にしていくことになる。解雇となったダニーからバンド側に対する訴訟問題も大きかったが、最も試練となったのは発表予定まで出ていた新作 Stone Of Sisyphus の発売中止だった。かつてのような売れ線を要求するレーベル側と、より発展的な展開を目指したいというバンドとの対立…これは結果的にフル・ムーン・レーベル離脱ということで決着を見た。