Buffalo Springfield

Buffalo Springfield (バッファロー・スプリングフィールド) プロフィール

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約2年という非常に短い期間の活動にも関わらず、メンバーのその後の活躍によって、後に高い評価を受けるようになったバッファロー・スプリングフィールド。フォーク/ルーツ音楽に対する独自のアプローチをとりつつ、サイケデリックの時代にも対応したユニークなサウンドを展開したバッファローは、日本では勿論あのはっぴいえんど のフェイヴァリットとして知られることになった、というのは有名な話だ。

少年時代にアメリカ南部や中南米を転々としながらさまざまな音楽体験を積んでいたスティーヴン・スティルスは、フォーク・ムーヴメントに促されニュー・ヨークに赴いた。そして、当時公開中だったビートルズの映画 ビートルズがやって来る、ヤァヤァヤァ(A Hard Days Night)に触発されロック・バンドを結成することを思い立つ。また運命的な出会いが、この後に待っていた。事の真偽は定かではないが、よく言われるエピソードとして語られるのがニール・ヤングとの再会だ。

西海岸ロサンゼルスに移ったスティルスは、東海岸の方へクルマを走らせる。その途中でバッタリと出くわしたのが、以前フォーク時代にカナダ巡業で知り合ったニール・ヤングだったのだ。その時ニール・ヤングは何故か霊柩車を改造したクルマに乗っており、反対車線を走っていたスティルスの目にもその異様なさまがハッキリ確認できたというから、本当だとするとかなり面白い。ともあれ再会を果たしたスティルスとニールはバンドを始動。メンバーはその2人の他、スティルスのオウ・ゴー・ゴー・シンガーズ時代の盟友リッチー・フューレイ、ニールの同僚でベースのブルース・パーマー、ディラーズに在籍したドラマー、デューイ・マーティンだった。

地元ロサンゼルスのクラブ、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーに6週間頻繁に出演したギグで、バッファローの評判はデビュー前にも関わらず瞬く間に広まった。また、ママス&パパスなど先輩格にもその実力を認められ、バーズローリング・ストーンズの前座を務めるなど、彼らは順調なスタートを切った…かに見えた。しかし、その後レコードデビュー時からバッファローにはゴタゴタが付き纏っていくのだった...。

’67年2月に発売された1stアルバムバッファロー・スプリングフィールドには当初スティルス作"ベイビー・ドント・スコールド・ミー"が収録されていたが、シングルとしてリリースされた"フォー・ホワット(For What It’s Worth)"が大ヒットしたため、その曲はすぐに"フォー・ホワット(For What It’s Worth)"に差し替えられた。これに関する件で、作品のシェアにおいてスティルスとニールの間に確執があったとも言われている(結局二分することになった)。またミキシングに対する不満から録り直しをバンドが要求したり、ニール作品のうち3曲で「よりコマーシャルに」という配慮からリード・ヴォーカルをリッチーに変更ということもあった。しかし、そうした事がありながらも今聴くと、彼らのユニークな音楽性が充分出た作品とも言える(メンバーはステージでのダイナミズムを巧くパッケージ化することが出来ず不満を募らせたというが)。この1stアルバムにはビートルズボー・ブラメルズなどポップなビート・グループを下敷きにしながら、独自のルーツ・ロック的アプローチを施し、ユニークで多様なフォーク・ロック・ナンバーを多数収録。多大な影響を受けた、はっぴいえんど 作"暗闇坂むささび変化"の元ネタのような曲もある。

’67年12月名盤の誉れ高い2nd アゲイン発表。事後的に聴くと、今ではトータル・アルバム的な趣きを感じるこの作品だが、実は制作過程でさまざまな事情があったことが確認されている。実は元々リリースする予定だった幻のアルバムStampedeの曲に、その後のセルフ・プロデュース音源を合わせて出したものがこの2ndだったといわれている(その結果Stanpede用に作られたニール・ヤング作"ダウン・トゥ・ザ・ワイア"はオクラ入りとなったが、後にニールのベスト盤 輝ける10年〜Decadeで陽の目を見た)。ローリング・ストーンズ"サティスファクション"のギター・リフを借り、ビートルズ映画からサンプリングした(?!)という歓声のコラージュが聴かれるニール曲があったり、これもニール作、ジャック・ニッチェをアレンジャーに起用したバッファロー版「ウォール・オブ・サウンド」があったり、なおかつスティルスの傑作"ブルーバード"もあり、ブラス導入のR&Bへのオマージュ的な曲があったり…とこの2ndはサイケデリックという時代の流れに促しながら、一筋縄ではいかない魅力を現出。しかし、実体は制作上のゴタゴタや、メンバー間の拭い去れない確執といったものがあってこそ出来た、稀有な迫力と緊張感を持つ一期一会的な産物でもあったのだ。

その後、このアルバムから少し経ってバンドは解散。ニール・ヤングスティーヴン・スティルスという対立軸を中心として、エゴの対立が激しくなり、メンバー間の関係がもう耐えられない、というところまで悪化したのだった。解散から3ヶ月後、’68年8月にラスト・アルバムとなるラスト・タイム・アラウンド発表。これはそれまでオクラになっていた曲のストックと、解散間近に各自が別々に進めていたソロ・セッションを、プロデューサー/エンジニアを兼ねる新ベーシスト、ジム・メッシーナとリッチー・フューレイが編集したものだった。この作品には、バンド崩壊の経緯からも分かるように、前作に見られた力技ともいえるアルバムとしての纏まりはないが、曲単位で見れば各々の個性が強く出た秀逸な楽曲が多い作品と言える。Stanpedeセッション時に録られたというスティルス・ナンバーは後に彼が組むことになるバンド、マナサスの行き方を彷彿とさせるラテン・タッチのナンバーだし、ニールの曲にしても後に彼の代表的なレパートリーになる楽曲で、ソロ・ライヴ音源にも収録されることになるほどのクオリティを備えている。加えてこの作品で健闘を見せるリッチー・フューレイの佳曲の存在も見逃せない。要は全体的に聴き所の多いアルバムとなっているのだ。

その活動中はいろいろな困難に見まわれたバッファロー・スプリングフィールド。このグループにおいては、エゴの対立が問題の中心となったことは明白だが、それと同時に彼らがそれぞれの才能・力量を認め合っていたことも事実だった。メンバー各々の個性が均等に尊重されるという民主的なコンセプトは後にスティルスが参加するCSN (ニール・ヤングも一時期参加し、その際はCSN&Yと名乗った)に受け継がれ、サウンド的にもその多彩な色合いはそれぞれ別のベクトルを持ちながら、後のミュージシャン達に受け継がれていった。

Stephen Stills
スティーヴン・スティルスはバッファロー解散後、元バーズデヴィッド・クロスビー、元ホリーズグラハム・ナッシュと「スーパー・グループ」、クロスビー=スティルス=ナッシュ〜CSNを結成。人気を集める。またCSN活動中にソロ・キャリアもスタート、一時期、元バーズフライング・ブリトー・ブラザーズクリス・ヒルマンらとマナサスというグループを組んだり、何度かのCSN再編に参加したりしている。ここに挙げたいオススメ作はスティルスのソロ1作目マナサスの名盤として知られるマナサス。前者は’90年代に入ってフリー・ソウル系クラブ・ヒットとなった"Love The One You’re With"を収録。アコギのカッティングとオルガン、パーカッションなどが絡むラテンっぽいグルーヴ・サウンドに、ゴスペル調のコーラスが被さる高揚感溢れる名曲だ。後者はラテン・グルーヴやカントリー・ロックなどを採り込んだユニークな個性で人気を得た。

Neil Young
ニール・ヤングはバッファロー解散後、ソロ・キャリアをスタート。また並行してCSNに加わり、CSN&Yとしても人気を獲得。何度か再編を繰り返すCSNに最近(’99年)、久々にニール・ヤングが加わって作品を発表。これも話題となった。ニールのソロ自体は、常に振幅の激しい活動を見せ、浮き沈みもあるが、それぞれの作品は、ほとんどが現役の最前線としての同時代的な評価を受けている。代表作は数々あるが(中でもアフター・ザ・ゴールド・ラッシュは最高傑作の誉れ高き作品)、ここではバッファロー脱退後に発表された象徴的な二作品ということで、1stCSN&Yデジャ・ヴュをご紹介したい。

Richie Furay
リッチー・フューレイはラスト・タイム・アラウンドを纏める作業の中で、ジム・メッシーナと意気投合。そのラスト・タイム・アラウンドの1曲に参加したラスティ・ヤングを誘った二人は、カントリー・ロック・サウンドで’70年代西海岸を代表するグループの一つとなるポコを結成した。

はっぴいえんど
バッファロー・スプリングフィールドは日本語ロックの黎明期に活躍した伝説のバンドはっぴいえんど に多大な影響を与えた。大瀧詠一細野晴臣のバッファローに関するやりとりの中でグループが結成されたというエピソードは余りにも有名。またはっぴいえんど はバッファローのサウンドだけでなく音楽へのアプローチの仕方にも深いところで理解を示していたことは特筆すべき。逆に当時の多くの日本人リスナーにとって、バッファローを知るきっかけとして機能し、その風変わりな音楽性やアーティスト性への理解を助けたのが、はっぴいえんど だったといっても過言でないだろう。

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