Aerosmith

Aerosmith (エアロスミス) プロフィール

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エアロスミスは結成された70年代当時から現在に至るまで華々しいショウビズ界の表舞台で何度も浮き沈みを体験しながら、活動を続けてきたグループだ。その佇まいには芸人根性、非常にプロフェッショナルなショウマンシップというものがあって、そうしたものが音楽の魅力とも相俟って聴く者を惹き付けて離さない魅力を醸し出している。

エアロスミスが結成されたのはマサチューセッツ州ボストン郊外のスナッピーという小さな街で1970年のこと。高校を卒業できないまま、幾つかのバンドを渡り歩いていたスティーヴン・タイラーは、のちに片腕となるジョー・ペリーと出会い、エアロスミスの母体となるバンドを結成した。その後メンバーを加え、エアロスミスという名で正式にスタートするのは1971年頃のことだった。当初彼らはボストンのハイスクールやカレッジを中心にライヴを行っていたが、1972年に入ってニュー・ヨークへ進出。マクシス・カンサス・シティで壮絶なライヴを繰り広げた彼らは、わずか一週間ほどで音楽関係者の間で有名になったという。そして同年8月には早くもCBSと契約し、スティーヴン・タイラーはじめとするメンバー達は、プロのキャリアを歩み始めるのだった。

1973年8月にエアロスミスはファースト・アルバム『野獣生誕』(Aerosmith)をリリースしてデビューを飾るが、このデビュー作、当初は全米チャートにもランクされず全米中での大きな話題とはならなかった。しかし地元ボストンのラジオ局では同作収録の“ドリーム・オン”のリクエストが殺到。レコード会社はこの事態に慌てて同曲をシングル・カットしたのだった。結果的にこの“ドリーム・オン”は全米チャート59位まで上昇した。

1974年に入りエアロスミスの人気は、それまで行ってきた地道なライヴ活動が身を結び始めたこともあって、急速に上昇傾向を示していった。同年3月にセカンド・アルバム『飛べ!エアロスミス』(Get Your Wings)を発表。さらに翌1975年4月にサード・アルバム『闇夜のヘヴィ・ロック』(Toys In The Attic)を発表。この前後の時期にZZトップブルー・オイスター・カルトらのサポートとしてエアロスミスは西海岸ツアーに出たことが人気にも跳ね返り、『闇夜の〜』は全米チャート11位を記録。このヒットを機にそれまでに発表したアルバムや再リリースされた“ドリーム・オン”も好セールスをあげ、三作がゴールド・ディスクを獲得するという快挙を成し遂げた。

『闇夜〜』のヒットでライヴ活動においてもサポート・アクトからヘッドライナーに昇格したエアロスミスは、過酷なツアーをこなしながらもアルバム制作準備に着手。ツアーを中断してレコーディングされた通算4作目のアルバム『ロックス』(Rocks)は1976年4月に発表された。同作はリリースと同時にチャートを駆け上り、プラチナ・ディスクを獲得するという大ヒットを記録、彼らの人気の決定打となった。

ロックスリリース後、再びツアーに出たエアロスミスだが、人気者ゆえのこの過酷なツアーにより、メンバー達はドラッグに深く入り込むようになった。大人気となったエアロスミスは、一方でドラッグの問題を抱えるようになり、この問題はバンドの運営に次第に支障をきたすようになってくる。

1977年に入るとエアロスミスは初のワールド・ツアーに出る(1月には初来日公演も行われた)。その後同年12月に通算5作目となる『ドロー・ザ・ライン』(Draw The Line)を発表。翌1978年から1979年にかけて大規模なツアーを敢行している。またこの間、1978年11月には初ライヴ作『ライヴ・ブートレッグ』(Live Bootleg)もリリースされている。

しかしこの頃を境にエアロスミスの活動には暗雲が立ち込め始めた。スティーヴン・タイラーとジョー・ペリーの音楽的なことに関する食い違いやドラッグ依存によるいざこざ、制作費を湯水のように使いながらもいっこうに進まない新アルバムの制作…。そして新作レコーディングに入ったものの、作業が遅々として進まないエアロスミスをみかねたマネージメントは、彼らをツアーに出すことに決定。しかしこのツアー中にジョー・ペリーが脱退、ジョー・ペリー・プロジェクトを結成してしまう、という衝撃的な事件が起こってしまった。

ジョー・ペリー脱退後、エアロスミスは元フレイムのジミー・クレスポの助けを得て制作中だったアルバム『ナイト・イン・ザ・ラッツ』を完成させ、1979年12月に発表。だがこのアルバムは内容的にもセールス的にも失敗作となるが、その後それに輪をかけてさらに悪いことは重なり、バイク事故でタイラーが入院(彼が復帰するまでのつなぎとして『グレイテスト・ヒッツ』(Greatest Hits)がリリースされている)、ブラッド・ウィットフォードの脱退、というバンドとしては最悪の状況を余儀なくされたのだった。

エアロスミスは前述のクレスポ、さらにリック・デュフェイというギタリスト二人を加え新生バンドとして1981年頃から活動を再開。1982年10月に久々のリリースとなるアルバム『美獣乱舞』(Rock In Hard Place)を発表するが、この作品でもまた往年の人気を取り戻すには至らず、活動休止、またCBSとの契約も失ってしまうことになった。

解散説まで流れたこの時期のエアロスミス。しかしこの後ラットモトリー・クルーといったLAメタル/ハード・ロック・シーンがエアロスミスの影響を受けたスタイルで人気を博したことがエアロ復活のきっかけとなった。1984年始めにエアロスミスジョー・ペリー、ブラッド・ウィットフォードを復帰させ絶好のタイミングで再生し、復活ツアーを敢行。その後、新たに契約したゲフィン・レーベルから1985年10月に復帰作『ダン・ウィズ・ミラーズ』(Done With Mirrors)を発表した。大きな成功こそ収められなかった同作品だが、ツアーには若いファンもつめかけるなどエアロスミスの人気は確実に戻ってきていた。またこの時期1986年にライヴ・クラシックス(Live Classics)、翌1987年に『ライヴ・クラシックスII』(Live Classics II)が古巣CBSよりリリースされ、さらに同時期、ラップ・グループのランDMCが“お説教(Walk This Way)”をカヴァーし、タイラーとペリーも参加した同曲は全米ナンバーワンを獲得するという話題もあがり、エアロスミスは再び黄金時代を迎えることになる。

1987年に発表された『パーマネント・ヴァケイション』(Permanent Vacation)が前述したような気運の高まりの中、エアロ人気復活の決定打となった。同作は全米のみならず世界中でヒットを記録。ツアーも成功を収め、エアロスミスは70年代の人気をも凌ぐ成功を得ることになった。

見事復活を遂げたエアロスミスは1989年9月、アルバム『パンプ』を発表。これも前作にも劣らぬ大成功をみせた。大規模なツアーも成功させもはや90年代にまでその成功を持ち込むことに成功していたエアロスミスは、しかしここでやや契約問題で躓いてしまう。彼らは1991年秋にゲフィンとのアルバム二枚分の契約を残したまま、古巣CBS(現ソニー)と契約を果たしたと声明。その予告編といった形でCDボックス 『パンドラの箱』もリリースされたが、1992年の初頭から2ヶ月にわたってレコーディングされた新作アルバム用のマテリアルは、ゲフィン・レーベルとの話し合いの中で、一度ボツにすることに決定され、エアロスミスは再びゼロの状態から曲作りをスタートさせることになる。

そして3ヶ月かかってレコーディングされた作品が、結局1993年になってゲフィン最後のスタジオ・アルバム 『ゲット・ア・グリップ』(Get A Grip)としてリリースされることになった。同作は彼らにとって初のナンバーワン・アルバムとなり、またこのリリースにあわせた20ヶ月ものツアーを敢行。その後1996年にゲフィンとの契約消化のためにリリースされたベスト盤『ビッグ・ワンズ』が出る頃には、新作も発表される予定だったが、レコーディングが難航を極めたため、アルバム自体の発表も大幅に遅れ、アルバム『ナイン・ライヴズ』は1997年3月にようやくリリースされることとなった。この後ツアーに出たエアロスミスは全米のみならずヨーロッパでも大成功を収めたが、この後1998年に入ると公演中にタイラーの骨折事故が起き、活動を中断。彼らは同年7月までの活動休止を発表するが、その間にジョーイ・クレイマーの交通事故による火傷で活動再開はさらに延びるというアクシデントもあった。

この活動停止期間を利用してエアロスミスは、スティーヴン・タイラーの娘で女優のリヴ・タイラーが出演する映画アルマゲドンの主題歌ミス・ア・シング(I Don’t Want To Miss A Thing)を制作。当代きってのヒット・メイカー、ダイアン・ウォレンの作による同曲は映画とともに世界的な大ヒットを記録することになり、エアロスミスはさらに幅広い層のファンを獲得することに成功したのだった。

1998年にゲフィンとの契約満了となるアルバムで、ライヴ作となる『ア・リトル・サウス・オブ・サニティ』(A Little South Of Sanity)をリリース。そして2001年3月にニュー・スタジオ・アルバム『ジャスト・プッシュ・プレイ』(Just Push Play)、そしてゲフィン時代のベストとなる『ヤング・ラスト』(Young Lust - The Aerosmith Anthology)を発表。2002年には映画『スパイダーマン』のサウンドトラックに“スパイダーマンのテーマ”のカヴァー楽曲を提供。また同年7月にはゲフィン、CBS時代両方の音源を収録した初のオールタイム・ベスト・アルバム『アルティメイト・エアロスミス・ヒッツ』(Ultimate Aerosmith Hits)をリリースした。2004年には彼らの原点である「ブルース」に立ち戻った『ホンキン・オン・ボーボゥ』(Honkin' on Bobo)をリリースした。

エアロスミスは先輩格のローリング・ストーンズ同様、非常にプロフェッショナルな資質を持っていて、これまであからさまな形ではないもののロックンロールという大枠の中で、その時々のサウンドの流行を的確にキャッチして自らの商品性を高めていくようなところがあった。 2004年の最新作『ホンキン・オン・ボーボゥ』ではブルースに挑戦している(同時期にエリック・クラプトンロバート・ジョンソンのカヴァー・アルバム『ミー・アンド・ミスター・ジョンソン』(Me And Mr Johnson)をリリースした。これは単なる偶然ではないだろう)。 ロックの殿堂入りを果たしたとはいえ、彼らはまだまだショウビズ界のど真ん中で勝負を挑む意気込みのようで、50歳を越えたスティーヴン・タイラーやジョー・ペリーをはじめとするメンバー達のその絶倫ぶりには驚くほかない。

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