ヘンツェ、ハンス・ヴェルナー(1926-2012)

人物・団体ページへ

CD 輸入盤

【中古:盤質A】 交響曲第2番、第10番 ヤノフスキ&ベルリン放送交響楽団

ヘンツェ、ハンス・ヴェルナー(1926-2012)

中古情報

新品ジャケット
こちら ※参考のため、実際の商品と異なる場合がございます
:
A
特記事項
:
なし
:
HMV record shop オンライン

基本情報

ジャンル
カタログNo
WER6725
レーベル
Germany
フォーマット
CD
その他
:
輸入盤

商品説明

(こちらは新品のHMVレビューとなります。参考として下さいませ。中古商品にはサイト上に記載がある場合でも、封入/外付け特典は付属いたしません。また、実際の商品と内容が異なる場合がございます。)

ヘンツェ:交響曲第2番&第10番
ヤノフスキ&ベルリン放送交響楽団


ヤノフスキ指揮ベルリン放送交響楽団によるヘンツェの交響曲シリーズに、初期の第2番と最後の第10番が登場。

交響曲第2番
1949年に完成。ヘンツェが12音技法を用いた最初の大きな作品ですが、メロディ的な部分など随所に調性音楽的な部分も見られ、終楽章のクライマックスではバッハのカンタータ第1番『輝く暁の明星のいと美わしきかな』のコラール引用もあり、最後も半音階的な12音技法で書かれていますが、不思議と調性感は保たれています。
 第1楽章冒頭のトロンボーンとハープによる静かな和音が全体の性格を示すこの交響曲について、ヘンツェ自身は「冬の音楽、灰色で薄暗い。」と述懐しており、指揮者のヘルマン・シェルヘンに献呈しています。

交響曲第10番
第2番から約50年の時を経て書かれたこの作品は、「嵐」「賛歌」「踊り」「夢」という4つの楽章から構成され、それぞれにベルク、シェーンベルクからストラヴィンスキー、さらにはジャズの要素まで盛り込まれています。
 ここに至るまでのヘンツェは、交響曲第7番では「ドイツ的なもの」を追求、第8番はベートーヴェンのように明るくテンポのよい音楽を書き、そして第9番では、ベートーヴェンと同じく合唱を用いながら、7人のユダヤ人がナチスの強制収容所から逃げ出そうとする物語を描きあげていました。
 その第9番が完成する前に、交響曲第10番の作曲をヘンツェに委嘱したのはサイモン・ラトルとパウル・ザッハーの二人ですが、ザッハーが1999年に亡くなってしまったため、2000年に完成したこの作品は、ザッハーの「思い出に」捧げられています。(HMV)

【収録情報】
ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ[1926-2012]
・交響曲第2番(大オーケストラのための)
・交響曲第10番(大オーケストラのための)

 ベルリン放送交響楽団
 マレク・ヤノフスキ(指揮)

 録音時期:2012年8月28〜29日(第2番)、2013年6月12〜14日(第10番)
 録音方式:ステレオ(デジタル)


【ヤノフスキ・プロフィール】
コンサート・ファンにはホットな情感を湛えた演奏で人気の高いドイツの指揮者、ヤノフスキ(ヤノウスキー)は、1939年2月18日にワルシャワで生まれますが、ほどなく第二次世界大戦が勃発したため、すぐに母親の両親の住むドイツのヴッパータールに移住し、ドイツで暮らすこととなります。最初数学を専攻したヤノフスキですが、やがて音楽の道に進むことを決意、ケルン音楽大学に進んで指揮を学び、さらにウィーンやシエナでも研鑽を積みます。
 そうした事情もあってか、ヤノフスキのCDには独墺系レパートリーが多いようですが、レパートリーそのものは、オペラとコンサートの両面で近現代音楽やフランス物までカバーしていてかなり広く、ヤノフスキの多彩な才能が十分に窺えるものとなっています。
 その緻密な仕上げと隙の無い解釈は、地元ドイツでもファンの心を着実に掴んでおり、激戦区ベルリンにあって、手兵ベルリン放送響の聴衆動員率アップに大いに貢献し、2011年まで契約が延長されるという栄誉にも浴しています。
 ヤノフスキは ドイツ育ちの指揮者という割にはフランス音楽が得意で、よくとりあげもしますが、それには1984年から20年近くに渡って深く関わったフランス国立放送フィルでの仕事の影響もあるのでしょう。この頃の実績により、ヤノフスキはメシアンの権威として高く評価されてもいました。
 一方でヤノフスキはドイツの歌劇場叩き上げタイプのオペラ統率ができる人物でもあり、シュターツカペレ・ドレスデンを指揮した『指環』では、歌手の持ち味と美しいオーケストラ・サウンドを堪能させつつ、引き締まったドラマ展開を創出していたものです。

【ヘンツェ・プロフィール】
ドイツの作曲家ハンス・ヴェルナー・ヘンツェは、伝統的な様式と前衛的な手法を巧みに融合、オペラやバレエのほか、交響曲、映画音楽といった音楽により、20世紀の作品ながら、多くの聴衆を獲得したことでも知られていました。
 ヘンツェの作品は、現代音楽ファンだけでなく、映画『エクソシスト』のエンド・タイトルに『弦楽のためのファンタジア』が使用されたことにより、映画ファンにもよく知られていました。

戦前
現代作曲界の重鎮ハンス・ヴェルナー・ヘンツェは、1926年7月1日、ドイツ北西部、ノルトライン=ヴェストファーレン州のギュータースローに生まれています。幼少から音楽とアートに強い関心を示していたヘンツェは、1942年、16歳からブラウンシュヴァイクの音楽学校で、ピアノと打楽器、音楽理論を学びますが、翌年、兵役のため東部戦線に送られ、その後、通信兵としてイギリス軍の捕虜となり終戦を迎えています。

戦後
終戦後、ビーレフェルトの劇場でコレペティトゥーアの職を得たヘンツェは、ハイデルベルクの教会音楽学校で音楽理論の研究もおこなっています。その師は、かつてヘンツェが所属していたヒトラー・ユーゲントのオーケストラの指揮者でもあった作曲家のヴォルフガング・フォルトナーでした。
 戦前にはフォルトナーの講義は「文化ボルシェヴィズム」と攻撃された種類のものでもありましたが、戦時中は徴兵されて衛生兵として軍務に就き、戦後は本来のスタンスで活動を再開、ダルムシュタットでも活躍、数多くの作曲家に影響を与えており、ヘンツェのほか、ヴォルフガング・リーム、ハンス・ツェンダー、ベルント・アロイス・ツィンマーマンといった錚々たる面々を育てています。
 ヘンツェはこのフォルトナーのほか、パリでルネ・レイボヴィッツに十二音技法を師事するなどしており、この時期の作品としては、1947年に初演された交響曲第1番とヴァイオリン協奏曲第1番、弦楽四重奏曲第1番、1948年のオペラ『不思議な劇場』、1949年の交響曲第2番とバレエ変奏曲、1950年の交響曲第3番とピアノ協奏曲第1番がありました。
 同年、ヘンツェは、ヴィースバーデンのヘッセン国立劇場バレー団の指揮者兼音楽監督に就任、1951年にオペラ『孤独大通り』とバレー『ラビリントス』、1952年にバレエ『愚か者』などを発表していました。
 さらにヘンツェは、ダルムシュタットでも新進作曲家として脚光を浴び、ケルン音楽大学で音楽劇を教えるなどしましたが、やがて左翼思想の影響を受けて実際に政治的な作品なども手がけ、さらに同性愛者であったこともあり、当時、連合軍支配下にあったドイツでは活動がしにくくなってきます。

イタリア移住
そうした背景もあって、1953年には、その後の人生のほとんどを過ごすこととなるイタリアに移住し、少し前に書いていたカフカ原作のラジオ・オペラ、『村の医者』により、イタリア放送協会のイタリア賞を獲得。
 ヘンツェがまず移り住んだのは、温暖なナポリ湾のイスキア島でした。この地でオペラ『鹿の王』(1955)、バレエ『マラソン』(1956)、バレエ『ウンディーネ』(1957 チェリビダッケ初演)、オペラ『公子ホムブルク』(1958)、バレエ『皇帝のナイチンゲール』(1959)などを作曲、作風を幅広いものに拡大して行きました。
 1961年には、ローマ近郊の小さな町、マリーノに転居、新古典的で自由な作風の『若き恋人たちのエレジー』(1961) のほか、アラン・レネ監督の映画『ミュリエル』のための音楽、オペラ『若き貴族』(1964)、オペラ『バッカスの巫女』(1965)などを作曲しています。

政治と音楽、キューバ滞在
ベトナム戦争の激化にともない、反戦運動が世界的に盛り上がった1960年代後半から1970年代にかけては、戦争や政治に関するメッセージ性を持った作品が多くなり、1969年から1970年にはキューバのハバナに滞在して研究・創作や教育活動に当たるなどしていました。  この頃の作品では、シュレンドルフ監督の反戦映画『テルレスの青春』(1966)のために書いた音楽の中の「弦楽のためのファンタジア」が、大ヒット映画『エクソシスト』のエンド・タイトルに転用されて一躍有名になっており、その他、チェ・ゲバラの思い出に捧げられたオラトリオ『メドゥーサの筏』(1970)、キューバ人奴隷の一生を描いた『エル・シマロン(逃亡奴隷)』(1970)、シュレンドルフ監督の反戦映画『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』(1975)、ピアノ協奏曲第2番(1967)、声楽曲『逃亡奴隷』(1976)、交響曲第6番(1971)、刑務所の歌(1971)、ガストン・サルバトーレの詩による『ナターシャ・ウンゲホイエル家への険しい道のり』(1971)などといった話題作が発表されています。

1970年代
1970年代、ライヴ・エレクトロニクスの手法に関心を持ったヘンツェは、ヴァイオリン協奏曲第2番(1971)、ピアノ協奏曲『トリスタン』(1973)などをテープも交えて作曲したほか、オペラ『我々は川に来た』(1976)、弦楽四重奏曲第3〜5番 (1976〜77)、ヴィオラ・ソナタ(1979)、王宮の冬の音楽(1976,79)などを作曲。
 1975年には、英国ロイヤル音楽アカデミー名誉会員となっています。

1980年代
三島由紀夫「午後の曳航」によるオペラ『裏切られた海』(1989)、児童オペラ『おやゆびこぞう』(1980)、オペラ『イギリスの猫』(1983)、バレエ『オルフェウス』(1986)、交響曲第7番(1984)などを作曲したほか、1981年にはモンテヴェルディ『ウリッセの帰還』の編曲もおこなっていました。
 1980年にケルン音楽大学作曲科教授に就任し、1987年には英国ロイヤル音楽アカデミーの作曲科教授にも就任、さらに翌年、ミュンヘン・ビエンナーレを創設して芸術監督となっています。

1990年代
ピアノ五重奏曲(1991)、レクィエム(1993)、交響曲第8番(1993)、オペラ『ヴィーナスとアドニス』(1995)、ヴァイオリン協奏曲第3番(1996)、交響曲第9番(1997)などを作曲。
 1991年、ベルリン・フィルハーモニーのコンポーザー・イン・レジデンスに任命。

晩年
交響曲第10番(2000)、侵略交響曲『マラトンの墓の上で』(2001)、オペラ『ヤツガシラと息子の愛の勝利』(2003)、『夢の中のセバスチャン』(2005)、オペラ『フェードラ』(2007)などを作曲したほか、三島由紀夫の「午後の曳航」によるオペラ『裏切られた海』を、ゲルト・アルブレヒトの提案によりあらためて日本語のオペラとして改作、2003年に読響の定期で初演し、その後、ザルツブルク音楽祭でも演奏会形式で上演されていました。
 2007年、40年以上に渡るパートナーであったファウスト・モローニが癌のため死去。2012年10月27日、ザクセン州ドレスデンの病院で亡くなられました。(HMV)

収録曲   

  • 01. Lento - Allegro
  • 02. Allegro Molto Vivace
  • 03. Adagio
  • 04. Ein Sturm
  • 05. Ein Hymnus
  • 06. Ein Tanz
  • 07. Ein Traum

ユーザーレビュー

総合評価

☆
☆
☆
☆
☆

0.0

★
★
★
★
★
 
0
★
★
★
★
☆
 
0
★
★
★
☆
☆
 
0
★
★
☆
☆
☆
 
0
★
☆
☆
☆
☆
 
0

関連するトピックス

音楽 に関連する商品情報

おすすめの商品