CD 輸入盤

グレート・ショパン・ピアニスツ(11CD)

ショパン (1810-1849)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
4795404
組み枚数
:
11
レーベル
:
Dg
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


グレート・ショパン・ピアニスツ(11CD)
ショパン・コンクール首位演奏者によるショパン録音集(1927-2010)


83年間、16回分の首位獲得演奏者たちのショパン音源を11枚のCDに収録したお買得ボックス。こうして優れたピアニストたちの名前がずらりと並ぶと壮観ですし、それぞれの演奏家の個性を手軽に比較したりして楽しめるのもとても便利。さらに年代順に演奏を追うことで、ポーランドという国の激動の歴史と、ショパン・コンクールの歴史の関わりについてなんとなく浮かび上がってくるのも面白いといえるかもしれません。

【クーデターの翌年に発足したショパン・コンクール】
5年に1度開催されるショパン・コンクールはこれまでに17回実施。ポーランドは長く隣国の支配を受けていましたが、第1次世界大戦末期に勃発したロシア革命とドイツ革命をきっかけに戦いによって領土を回復、1918年にポーランド共和国として復活・独立を果たすものの、すぐには政情は安定せず、1926年に「5月革命」と呼ばれるクーデターによってソ連寄りの政権となってようやく落ち着き、翌年には第1回ショパン・コンクールが開催されることとなります。

【1927年から2010年までの首位演奏者の音源を収録】
第1回[1927]のレフ・オボーリン、第2回[1932]のアレクサンドル・ウニンスキー、第3回[1937]のヤコフ・ザークという戦前の優勝者たちはすべてソ連のピアニスト。当時のポーランド政府の親ソ的方針という政治的背景との関係は不明です。
 第2次世界大戦による中断を挟み12年後の1949年に再開された第4回[1949]では、ポーランドのハリーナ・チェルニー=ステファンスカとソ連のベラ・ダヴィドヴィチが優勝。ドイツの爆撃により焼失したフィルハーモニーホールの再建を待って6年後に開催された第5回[1955]は、ポーランドのアダム・ハラシェヴィチが優勝しています。
 第6回[1960]は、フルシチョフによるスターリン批判といういわゆる「雪解け」後に開かれ、イタリアのマウリツィオ・ポリーニが優勝、同じく1960年代の第7回[1965]はアルゼンチンのマルタ・アルゲリッチが優勝。
 続いて1970年代におこなわれた第8回[1970]は、初のアメリカ人、ギャリック・オールソンの優勝となり、第9回[1975]では20年ぶりにポーランド人のクリスティアン・ツィメルマンが優勝を果たすこととなります。
 1970年代のポーランドは、西側にも依存した経済政策でインフレや暴動などが多発した不安定な時期でしたが、1980年にはポーランド自主管理労働組合「連帯」が結成されて新たな局面を迎え、1989年、ついに共産主義から脱した民主国家が誕生することとなります。
 その間、「連帯」結成の年の第10回[1980]は、1976年に社会主義共和国となったばかりのベトナムからダンタイソンが出場して優勝、第11回[1985]はソ連のスタニスラフ・ブーニンが優勝しています。
 ポーランド民主化後におこなわれた第12回[1990]は、第1位無しで第2位がアメリカのケヴィン・ケナー、第13回[1995]も第1位無しで第2位がロシアのアレクセイ・スルタノフとフランスのフィリップ・ジュジアーノでした。1989年のヴァン・クライバーン・コンクールで優勝していたスルタノフは2位評価に不満で授賞式をボイコットしたことでも注目を集めていましたが、その後、スルタノフは2005年に35歳の若さで亡くなっています。
 2000年代に入って開かれた第14回[2000]では中国のユンディ・リが優勝、第15回[2005]では30年ぶりのポーランド人となるラファウ・ブレハッチが優勝し、第16回[2010]ではロシアのユリアンナ・アヴデーエワが45年ぶりの女性奏者としての優勝を果たしています。ちなみにアヴデーエワはYAMAHAで出場していますが、YAMAHAでの優勝者は初めてということでした。(HMV)

【収録情報】
Disc1
レフ・オボーリン 1927年
● ピアノ・ソナタ第3番 Op.58(1951年、モスクワ・ライヴ)
● 子守歌 Op.57(1947年10月12日、ワルシャワ・ライヴ)
● 夜想曲 嬰ハ短調(1927年ショパン・コンクール・ライヴ)

アレクサンドル・ウニンスキー 1932年
● マズルカ第1番、第41番/ワルツ第11番(録音:1932年、ワルシャワ)
● 舟歌(録音:1952年、アムステルダム)
● 練習曲 Op.25-7(録音:1954年、アムステルダム)

ヤコフ・ザーク 1937年
● 華麗な円舞曲 Op.34-3/ 夜想曲第9番、第11番/マズルカ第11,22,40,41番(録音:1955年)

Disc2
ハリーナ・チェルニー=ステファンスカ 1949年
● ピアノ協奏曲第1番〜スメターチェク&チェコ・フィル(録音:1955年、プラハ)

ベラ・ダヴィドヴィチ 1949年
● ピアノ協奏曲第2番〜コンドラシン&モスクワ交響楽団(録音:1961年、モスクワ)

アダム・ハラシェヴィチ 1955年
● バラード第1番/練習曲 Op.25-6(録音:1966年、モスクワ)

Disc3
マウリツィオ・ポリーニ 1960年
● 12の練習曲 Op.25(録音:1972年)
● ピアノ・ソナタ第2番 Op.35(録音:1984年)
● 子守歌 Op.57(録音:1990年)

Disc4
マルタ・アルゲリッチ 1965年
● 24の前奏曲 Op.28(録音:1975年)
● 前奏曲嬰ハ短調 Op.45/前奏曲変イ長調(遺作)(録音:1977年)
● スケルツォ第3番 Op.39(録音:1960年)
● 3つのマズルカ Op.59/ポロネーズ 変イ長調 Op.61『幻想』(録音:1967年)

Disc5
ギャリック・オールソン 1970年
● マズルカ第32番/ワルツ第1番(録音:2006年8月20日、ワルシャワ・ライヴ)
● マズルカ第6番/夜想曲第7番、第8番/スケルツォ第3番/ワルツ第7番/バラード第3番/幻想曲 Op.49/ワルツ第5番/練習曲 Op.10-4(録音:2010年2月25日、ワルシャワ・ライヴ)

Disc6
クリスティアン・ツィマーマン 1975年
● 4つのバラード/舟歌 Op.60/幻想曲ヘ短調 Op.49(録音:1987年)

Disc7
ダン・タイ・ソン 1980年
● 夜想曲第5番、第7番/ワルツ第3番/アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ Op.22/マズルカ第15番、第45番/スケルツォ第2番(録音:1981年)

スタニスラフ・ブーニン 1985年
● バラード第4番/マズルカ第22〜25番/ワルツ第4番/ポロネーズ第6番(録音:1985年)

Disc8
ケヴィン・ケナー 1990年
● 即興曲第2番/練習曲 Op.10-4/練習曲 Op.10-12/バラード第4番/スケルツォ第3番(録音:1990年、ワルシャワ・ライヴ)

フィリップ・ジュジアーノ 1995年
● 夜想曲第10番/ワルツ第7番/バラード第7番/ワルツ第1番(録音:2010年、2008年、ワルシャワ・ライヴ)

アレクセイ・スルタノフ 1995年
● 練習曲 Op.25-5/練習曲 Op.25-6/練習曲Op.10-12/夜想曲第13番/ポロネーズ第6番(録音:1995年、ワルシャワ・ライヴ)

Disc9
ユンディ・リ 2000年
● ピアノ・ソナタ第3番/アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ/練習曲 Op.10-2/練習曲 Op.10-5/練習曲 Op.25-11/夜想曲第1,2,5番/即興曲第4番(録音:2001年)

Disc10
ラファウ・ブレハッチ 2005年
● ポロネーズ第1〜7番(録音:2013年)

Disc11
ユリアンナ・アヴデーエワ 2010年
● ワルツ第2番(録音:2008年8月22日、ワルシャワ・ライヴ)
● 夜想曲第17番/スケルツォ第1番/4つのマズルカ Op.33/ポロネーズ第7番(録音:2011年8月24日、ポーランド放送ルトスワフスキ・コンサート・スタジオ、ライヴ)
● スケルツォ第4番/4つのマズルカ Op.30/前奏曲 嬰ハ短調 Op.45(録音:2010年10月6,12日、ショパン・コンクールでのステージ・オーディション)
【ショパン・プロフィール】
二つの名前
ショパンはポーランドに生まれた作曲家ですが、成人してからは父親の国であるフランスを中心に暮らしていたこともあって、通常、「フレデリック・フランソワ・ショパン」というフランス名で呼ばれ、祖国ポーランドでは「フリデリク・フランツィシェク・ショペン」と呼ばれています。

フランス系ポーランド人
ショパンの父親、ニコラ・ショパン[1771-1844]は、10代のなかばからポーランドで暮らしていたフランス人で、ポーランド解放軍に従軍したのちは家庭教師となってポーランド貴族の家庭で子女にフランス語を教えて過ごし、やがて同じく貴族の家庭で働いていたポーランドの没落貴族の子女であるユスティナ・クシジャノフスカ[1782-1861]と結婚し、フレデリックが生まれることとなります。なお、父の名はポーランド名ではミコワイ・ショペンとなります。

体質
ショパンは肺結核のため39歳という若さで亡くなっています。結核には生涯を通じて悩まされており、17歳の時には2歳下の妹エミリアを同じ病気で失っています。インフルエンザでもショパンは重態に陥るなど、その華奢な体はあまり健康には恵まれていませんでした。

恋愛
幼少からピアノの練習と作曲の勉強に明け暮れ、体もあまり丈夫ではなかったショパンですが、よく知られている話としては4人の女性への恋愛事情が知られています。
 最初の女性は19歳のときに出会った歌手のコンスタンツィア・グワトコフスカで、残念ながら片思いに終わってしまうものの、その心情はピアノ協奏曲第2番の第2楽章に結実しています。
 2人目は、ポーランド人貴族ヴォジンスキ伯爵家の令嬢マリアで、婚約にまで至りますが、翌年、マリア側から破棄されてしまいます。
 3人目は、作家のジョルジュ・サンドで、9年間に渡る交際の中、さまざまな名曲が生み出されます。
 4人目は、歌手でもあるデルフィヌ・ポトツカ伯爵夫人。彼女は古くからショパンと交流があり、死の床にも駆けつけたとされる人物で、若き日のピアノ協奏曲第2番と晩年の『小犬のワルツ』が捧げられてもいます。

使用楽器
ショパンが活躍した19世紀前半は、ピアノという楽器がまだまだ進化の途中だったとされる時代で、そのサウンドは現代の楽器とは少なからず違ってはいたものの、それでも古典派時代のフォルテピアノに較べると大きな変貌を遂げており、ショパンの作曲意欲を刺激するのに十分な機能を持ち合わせていたものと思われます。
 実際に当時の楽器で演奏されたCDもリリースされていますが、1840年代に製造されたものは、現代のピアノとはまた違った魅力に富んでおり、ショパンが思い描いたイメージをリアルに再現するという意味でも、たいへん興味深い仕上がりを示しているものが多いようです。
時代楽器によるショパン演奏

ピアノの可能性を探求
そうした機能面で恵まれた楽器に接していたこともあってか、ショパンのピアノ音楽は、それまでの作曲家の書いたピアノ音楽には無かった、非常に繊細で抒情的な美しさや、ダイナミックな表現にまでさまざまな感情の込められたものなど、独自の工夫を感じさせるものが多く、オペラや交響曲には目もくれず、ピアノという楽器に没入したショパンならではの、音楽表現の可能性の探求がなされているのがポイントといえます。

ピアノ曲以外の音楽
人生の中心がピアノだったショパンは、作曲した曲もほとんどがピアノ曲ですが、わずかながら室内楽曲や歌曲も書いています。チェロ・ソナタは親友のチェリストで作曲家のオーギュスト・フランショーム[1808-1884]のために書いたショパン晩年の作品で、同じ時期にヴァイオリン・ソナタにも着手していることから、ショパンがピアノ曲以外のジャンルにも積極的になっていたことが推測されています。
 歌曲については、歌が好きで幼いショパンにいつも歌って聴かせていた母親の影響や、歌手だった恋人たちの影響もあるものと思われます。

年表
ポーランド時代[1810-1830]
【1810】
0歳。ポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラに、フランス人の父とポーランド人母の間に誕生。生後六ヶ月でワルシャワのサスキ宮殿近くに転居。
【1814】
4歳。母や姉からピアノ演奏を習い始めます。母はピアノと歌が得意でした。
【1816】
6歳。ヴォイチェフ・ジヴニーからピアノの指導を受け始めます。
【1817】
7歳。最初の作品『ポロネーズ ト短調』を作曲。スカルベックの援助で出版。
【1818】
8歳。ワルシャワでイーロヴェッツのピアノ協奏曲を演奏。
【1821】
11歳。師のジヴニーの誕生日のために名技的なポロネーズを作曲して献呈。
【1823】
12歳。フェルディナント・リースのピアノ協奏曲を演奏。ワルシャワ音楽院長ユゼフ・エルスネルから対位法、和声学を学び、ヴィルヘルム・ヴュルフェルからオルガンの指導を受けます。
【1825】
15歳。高等学校の正式なオルガニストになります。
【1826】
16歳。高等学校を退学しワルシャワ音楽院に入学。
【1827】
17歳。妹エミリアが結核で死亡。
【1828】
18歳。ベルリンに行きウェーバーの『魔弾の射手』、チマローザの『秘密の結婚』、ヘンデルの『聖セシリア』を鑑賞。
【1829】
19歳。声楽のコンスタンツヤ・グワトコフスカに恋愛感情を抱き、ピアノ協奏曲第2番の第2楽章にその気持ちを反映。ワルシャワ音楽院を首席で卒業し、ウィーンで演奏会を開催。
【1830】
20歳。ピアノ協奏曲第2番をワルシャワで演奏。ウィーン行きを決め告別演奏会を開催。ピアノ協奏曲第1番を演奏し、ショパンの希望でコンスタンツヤはロッシーニの『湖上の美人』のアリアを披露。その後、コンスタンツヤから別れの詩を贈られ、ウィーンに出発。ウィーン到着後、まもなくワルシャワ蜂起がおこります。
【1831】
21歳。ワルシャワ蜂起の影響もあり反ポーランドの色が濃くなったウィーン楽壇では演奏する機会がなかなか得られず、7月にウィーンを去り、8月、ミュンヘンでピアノ協奏曲第1番ほかによる演奏会を開催。翌月、シュトゥットガルトでワルシャワ蜂起の失敗を知り、パリに向かいます。パリ到着後、デルフィヌ・ポトツカ夫人と再会。

フランス時代[1831-1849]
【1832】
22歳。2月、プレイエル・ホールでカルクブレンナーと演奏会開催。リスト、メンデルスゾーン、ヒラー、ベルリオーズらと親しくなります。
【1833】
23歳。リスト、ヒラーと共にバッハの3台のピアノのための協奏曲を演奏。ベッリーニと知り合い友情を深めます。
【1835】
カールスバートで両親と最後の再会。かつて親交のあったポーランド人貴族ヴォジンスキ伯爵家のマリアとドレスデンで再会し、ワルツを献呈(後に『別れのワルツ』と呼ばれる曲)。 ハイデルベルクとパリで喀血、ショパン重態説が流れます。
【1836】
26歳。マリア・ヴォジンスキに求婚。リストの愛人マリ・ダグー伯爵夫人のサロンでジョルジュ・サンドを紹介され、その後、ショパン宅の夜会にサンドを招きます。
【1837】
27歳。2月、インフルエンザ罹患。7月、ヴォジンスキ家から婚約が破棄。
【1838】
28歳。アルカンの演奏会に出演。サンドとの交際がスタート。結核療養のためマジョルカ島に4ヶ月滞在しますが病状は一進一退。
【1839】
29歳。4月、友人の歌手ヌーリが自殺し、鎮魂ミサでオルガンを演奏。6月、サンドの別荘のあるフランス中部のノアン村(パリの南約270キロ)に到着、夏を過ごします。
【1840】
30歳。モシェレスと共にサン・クルー宮殿で御前演奏。
【1841】
31歳。4月、プレイエル・ホールで演奏会開催。6月、ノアンに出発。11月、サンドの住むピガール街に転居。
【1842】
32歳。2月、プレイエル・ホールで演奏会開催。4月、親友マトゥシニスキの死を看取ります。5月、ノアンに出発。
【1843】
33歳。5月、ノアンに出発。10月、パリに戻ります。体調の悪化に伴い、サンドの交友相手に嫉妬。
【1844】
34歳。冬、インフルエンザにより重態。春、回復。5月、父親死去。5月、ノアンに出発。11月、パリに戻ります。サンドの息子モーリスとの感情的対立が深刻に。
【1845】
35歳。3月、病状悪化。6月、ノアンに出発。7月、サンドの娘ソランジュとショパンの心の繋がりが強まり、サンドは息子モーリスとの繋がりを強めて対立的に。
【1846】
36歳。5月、ノアンに出発。モーリスとの関係、さらに悪化。9月、健康状態悪化。
【1847】
37歳。サンドのいない新年。インフルエンザ罹患。5月、喘息の発作で一時重態に。7月、ソランジュをめぐるいざこざもあり、サンドから別れの手紙。
【1848】
38歳。 2月、プレイエル・ホールで演奏会開催。パリで最後の演奏会。4月、ロンドンに出発。ヴィクトリア女王の御前演奏。エディンバラ、マンチェスター、グラスゴーなどでの演奏会を経て10月ロンドンに戻ります。ひどい風邪で呼吸困難に。11月、パリに出発。喀血。体調悪化。
【1849】
39歳。冬の間病床。春、小康状態に。6月、シャイヨに転居。大量の喀血。この頃、大流行したコレラにより友人のカルクブレンナー、カタラーニが死亡。8月姉ルドヴィカと再会。9月、パリ中心のヴァンドーム広場のアパルトマンに転居。10月、病状悪化、デルフィナ・ポトツカ夫人、病床を見舞い歌う。10月17日、死去。  葬儀はパリのマドレーヌ寺院でおこなわれ、モーツァルトのレクィエムが演奏されました。これは、ショパンの生前の希望によるもの。遺体はペール・ラシェーズ墓地に埋葬。
【1850】
1月、ショパンの意向により、心臓が姉ルドヴィカによってポーランドに持ち帰られます。
【1855】
1月、ワルシャワの聖十字架教会に心臓が安置されます。

収録曲   

ディスク   1

  • 01. 1. Allegro Maestoso - Lev Oborin
  • 02. 2. Scherzo (Molto Vivace) - Lev Oborin
  • 03. 3. Largo - Lev Oborin
  • 04. 4. Finale (Presto Non Tanto) - Lev Oborin
  • 05. Berceuse in D Flat, Op.57 - Lev Oborin
  • 06. Nocturne No. 20 in C Sharp minor, Op. Posth. - Lev Oborin
  • 07. No.1 in F Sharp minor - Alexander Uninsky
  • 08. No.3 in C Sharp minor - Alexander Uninsky
  • 09. Waltz No.11 in G Flat, Op.70 No.1 - Alexander Uninsky
  • 10. Barcarolle in F Sharp, Op.60 - Alexander Uninsky
  • 11. No. 7 in C Sharp minor - Alexander Uninsky
  • 12. Waltz No.4 in F Major, Op.34 No.3 - "Grande Valse Brilliante" - Yakov Zak
  • 13. Nocturne No.9 in B Major, Op.32 No.1 - Yakov Zak
  • 14. Nocturne No.11 in G minor, Op.37 No.1 - Yakov Zak
  • 15. No.2 in E minor - Yakov Zak
  • 16. No.1 in G Sharp minor - Yakov Zak
  • 17. No.2 in F minor - Yakov Zak
  • 18. No.3 in C Sharp minor - Yakov Zak

ディスク   2

  • 01. 1. Allegro Maestoso - Halina Czerny-Stefanska, Czech Philharmonic, Vaclav Smetacek
  • 02. 2. Romance (Larghetto) - Halina Czerny-Stefanska, Czech Philharmonic, Vaclav Smetacek
  • 03. 3. Rondo (Vivace) - Halina Czerny-Stefanska, Czech Philharmonic, Vaclav Smetacek
  • 04. 1. Maestoso - Bella Davidovich, Moscow Symphony Orchestra, Kirill Kondrashin
  • 05. 2. Larghetto - Bella Davidovich, Moscow Symphony Orchestra, Kirill Kondrashin
  • 06. 3. Allegro Vivace - Bella Davidovich, Moscow Symphony Orchestra, Kirill Kondrashin
  • 07. Ballade No.1 in G minor, Op.23 - Adam Harasiewicz
  • 08. No. 6 in G Sharp minor - Adam Harasiewicz

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ショパン (1810-1849)

。39年の短い生涯を、作曲とピアノ演奏で駆け抜けた「ピアノの詩人」の素晴らしい音楽が世界中で鳴り響きます。世界各国でさまざまなコンサートやイベントがおこなわれ、CDやDVDなど、数多くの音楽ソフトもリリースされ、ショパンの音楽が過去最高の注目を集めるにぎやかな年になりそうです。

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