二名の方が仰っていることに幾つか付け加えたい。先ず、長生きしていて良かったことだ。私は高齢で鬼籍に入っている知人も多い。そのことを考えると、フルトヴェングラーのウィーンで行った戦中・戦後の演奏会が網羅されているセットを鑑賞できることに感謝したい。芸術にはどうしても個人によって好みの違いが出てしまうのは仕方がないことだろう。フルトヴェングラーの指揮を批判する陣営が語る理由に彼の重厚でロマンチックな解釈が挙げられる。しかし、現代はさておき、過去に於いて、芸術、特に音楽というものが世界中の人間に感動を与えて来た影響力は美術とは比較にならない計り知れないものがあると思う。当然、聴衆を陶酔させなければならない。となれば、フルトヴェングラー以前のビューローの様な指揮者も重厚でロマンチックな解釈をしていたと推測出来る。つまり、フルトヴェングラーはそうした正真正銘の演奏を渾身の力を振り絞って聴かせてくれた最後の指揮者だったと確信する。哲学者でもあった彼の楽曲理解の深さには同年代に活躍していた先輩指揮者たちも叶わなかったと考える。どの演奏も素晴らしい、特にマタイ受難曲には大変感動した。正直な所、キリスト者でない私にはこの楽曲を聴く資格はないとこれまで封印して来たのだ。しかし、信仰のない私でも全曲が静謐に終わった瞬間、とても敬虔な気持ちになった。涙がこぼれ落ちた。バッハがこの楽曲に込めた思いを見事にフルトヴェングラーがモダン楽器で再現していたからだ。現代ではバッハの大きな楽曲となると古楽による演奏が主流である。しかし、私は古楽を好まない。作曲された当時に合った楽器で演奏すべきだという主張は理解出来る、しかし、その演奏を数千人も収容出来る演奏会場で演奏することには全然価値を認めない。何故なら、その当時の音楽というものは王侯貴族だけが狭い空間で少人数で聴いたものだからである。よって、古楽派のしていることには大きな矛盾が常につきまとう。これは批判ではなく、私の価値観である。有名な外国の古楽オーケストラがバッハのロ短調ミサ曲を演奏したのをサントリーホールで聴いたことがある。楽器の音はとても貧弱で声楽法も大ホールに響き渡るものではない為、物足りないどころか憤りすら覚えた。これが古楽なのだと思い知らされた気持ちもした。しかし、私としては、現代は21世紀であり、音楽は一部の上流階級だけが聴く時代ではなくなったので、やはり、作曲された時代はバロックであっても近代オーケストラで楽しみたいものだ。古楽ファンからの批判は甘受しよう。しかし、ホールの音響も格段に向上した時代にかつらを被った雇われ楽師が演奏していたスタイルを真似することに抵抗を感じてはいけないだろうか?音楽は特権階級から大衆が楽しむ時代へと変遷したのだ。だからこそ、モダン楽器でバッハを楽しみたいと思う人間がいても良いと私は思う。そういうことをフルトヴェングラーはこのCDの中から半世紀以上経た現代に生きる私たちに語り掛けてくれている。ウィーン・フィルは世界で一番楽員のプライドの高いオーケストラだ。特に引退した団員には辛辣に指揮者を論評される90近い高齢の方もたくさんおられ、現役指揮者への厳しい批判をドイツ語のサイトや日本の音楽専門誌で読む機会が多い。実名は出さないが、現役で活躍する指揮者たちは全員一刀両断に斬り捨てられていたが、フルトヴェングラーの話題になると、巨匠の偉大さを賞賛しない方は一人もおられない。彼らはフルトヴェングラーを重厚ではなく神秘的と表現する。そして、一緒に仕事が出来た感動を未だに感謝しているのだ。私は音質には全然こだわない。耳よりも心で聴くので、音楽の価値を表面的な音ではなく、その精神性の高さに求めるのだ。そうした気高い指揮者は録音が現存する者ではフルトヴェングラーだけである。また、これだけ最近、フルトヴェングラーのセットで安価で音質が良いものが販売されると、フルトヴェングラーしか聴けなくなってしまっている自分に気付く。クナッパーツブッシュやシューリヒトも好きだったのだが、聴けなくなってしまった。
Ich liebe, achte und danke Wilhelm Furtwaengler,
weil er fuer immer der groesste Dirigent in der ganzen Welt bleibt.