Funkadelic (ファンカデリック) プロフィール

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奇人変人、猥雑、ジャケットのアートワークのコミック的要素も相まってPファンクは表面的にとらえられがちだが、時代が求めたロックとファンクを引き込みながら黒く混沌としたグルーヴを表現したグループは彼ら、パーラメント/ファンカデリック以外には考えられない。

Pファンクは50年代半ば、ニュージャージー州ニューアークの床屋から始まる。そこで働いていたジョージ・クリントン(41年7月22日生まれ)がそこに集まってはコーラスをしていた仲間とザ・パーラメンツというヴォーカル・グループを結成したことが全ての始まりだ。58年には初めてのシングルを発表。翌59年にはニューというレーベルからもリリースしている。当初4人編成だったが、後まで活動することになるカルヴィン・サイモン、グラディ・トーマスらも加わる。彼らはニューアークからモータウンを目指しデトロイトへ。しかしモータウンに5年程いたもののシングルは出せず、クリントンは作曲、グループはクラブでのギグに精を出すようになる。

彼らがチャンスをものにするのは67年、レヴィロット・レーベルに移って最初のシングル“(アイ・ウォナ)テスティファイ”がR&Bチャートで3位、ポップチャートで20位というヒットになってからだ。続く“オール・ユア・グッドネス・ゴーン”もR&Bチャート21位となり、ようやく軌道に乗り始める。クリントン、サイモン、トーマスにレイモンド・デイヴィス、クラレンス“ファジー”ハスキンズを加えた5人がヴォーカル陣、エディ・ヘイゼル(リード・ギター)、タウル・ロス(ギター)、ビリー・ネルスン(ベース)、ミッキー・エイトキン(オルガン)、ティキ・フルウッド(ドラムス)というメンバーがバックバンドとなった。そのバックバンドをファンクとサイケデリックを合成してファンカデリックと名付ける。これが、かの有名なファンカデリックの名前の由来と言われている。当時はジミ・ヘンドリックススライ&ファミリー・ストーンなどロック、サイケの波が押し寄せていた頃であった。

70年、ファースト・アルバム「Funkadelic」をファンカデリック名義でリリース。ザ・パーラメンツの名前はレヴィロットとの契約問題で使えず、発売が延期となっていたのだ。そこでウェストバウンドと契約し、ファンカデリックの名前を使うことにし、インヴィクタスからリリースされた方はザと最後のsがとれパーラメントという名前にした。この頃からバニー・ウォーレルも参加するようになり、Pファンク軍団の中枢となっていく。他のバンドメンバーにギターのゲイリー・シェイダー、ベースにコーデル・モースン、ドラムにタイロン・ランプキンが加わり、サウンドはさらにロック、サイケの色合いが濃くなっていく。このあたりはオハイオ・プレイヤーズアイズリー・ブラザーズの活躍がかなり気になっていたのではという意見もある。ヒットを出していったファンカデリックは人気を集め、ストゥージーズMC5といったグループともジャンルを超えコンサートを行ったということであるから、かなり名前が知れ渡っていたのだろう。

そして71年の「Maggot Brain」をリリース後、72年の「America Eats Its Young」でPファンクにとって最も大きな存在になる男、ブーツィー・コリンズが加わる。わずか17才でオリジナルJBズの中枢となった天才ベーシストである男、ブーツィー。彼はファンカに入る前からホット・パンツ、ブーツ、スカーフなど派手なコスチュームを身に纏い、昔から目立つ存在であったらしい。彼はファンカに参加したものの、メンバー全員クスリ漬けで、もちろんブーツィーもクスリにはまり(しかたないなあ)、「America...」以降のアルバム2枚には参加していない。74年の「Up For The Down Stroke」からブーツィーは参加する。そしてファンカの「Greatest Hits」(ウェストバウンド)をリリースし、翌75年にはパーラメントで「Chocolate City」を発表。73年にはエディ・ヘイゼルがモータウンと契約しPファンクと離れてしまうが、75年頃からキッド・ファンカデリックの異名をとるギタリストマイケンル・ハンプトンが加わりツアーに参加。76年の「Mothership Connection」にはJBズのフレッド・ウェズリーメイシオ・パーカーブレッカー・ブラザーズ、ギターにグレン・ゴインズも加わり大所帯となっていく。

しかしグループの主導権は常にクリントンにあり、何でも彼が決めていくワンマンスタイルであった。76年にはファンカで「Tales Of Kidd Funkadelic」「Hardcore Jollies」、パーラメントで「The Clones of Dr. Funkenstein」をリリース。彼らのスタイルも定まり、「ファンクが世界を救う」というものすごいコンセプトも固まった。クリントン自身の言葉によると、ファンカはギター・バンドでフィーリングに頼った感覚的なバンド、パーラメントは整ったアレンジがされて考え抜かれたファンク、だそうだ。「Mothreship...」収録の“Pファンク”によって、この二つのグループを総称して「Pファンク」という偉大な名が定着したのであった。

76年にはブーツィーがブーツィー・ラバー・バンドとしてデビュー、それでもPファンク関連のレコーディングには参加したりツアーにも同行していたが、“アイド・ラザー・ビー・ウィズ・ユー”のヒットによりブーツィーは一人立ちを始めた。それだけに76年末から77年にかけてのアース・ツアーは一大イベントとなり、70年代はじめにはファンカがスライの前座となりツアーをしたが、この頃にはスライも落ち目で立場は逆転、アース・ツアーにスライが参加するようになった。

76年にファンカはウェストバウンドからワーナーに移籍、パーラメントとファンカデリックという実質同じグループをクリントンはメジャーレーベル2つに分けるという快挙を平然とやってのける。さらにクリントンは精力的に仕事をしていき、ブーツィー以外にもPファンク勢のアルバムをリリース。ファジー・ハスキンズ、ホーニィ・ホーンズ、ブライズ・オブ・フランケンシュタイン、バニー・ウォーレル等など。Pファンクとは関係ないデルズや、ザップまでも手がけたている。77年には2枚アルバムをリリース、78年にはファンカ名義の名作「One Nation Under A Groove」を含み2枚アルバムをリリース。しかしクリントンは79年、「もうステージに立たない」と宣言する。Pファンク軍団の各々の活動が多くなり、軍団自体が巨大化し維持が難しくなったこと、そして自ら設立したアンクルジャム・レーベルの運営(コロムビア配給)などが理由であったらしい。しかし、順風満帆であったはずのクリントンにも影がさす。活躍する他のメンバーに嫉妬したか、ザ・パーラメンツ時代のヴォーカルで77年に脱退していたヴァン・サイモン、ファジー・ファスキンス、グラディ・トーマスの3人が「ファンカデリック」の名前でアルバムを80年にリリースしてしまう。さらにクリントンのファンカも「The Electric Spanking Of War Babies」のジャケットや内容をめぐってワーナーと対立し発表延期、ロジャーやザップのアルバムに関するロイヤリティ問題、カサブランカとの金銭問題などこじれにこじれ、遂に活動を停止せざるを得なくなってしまったのだ。80年、パーラメントで「Trombipulation」、ファンカで「The Electric Spanking Of War Babies」を発表。元オハイオ・プレイヤーズのウォルター・モリスン、スライが絡むなどグループ内も変化していく。クリントンは82年EMI/キャピトルとソロで契約し、「Computer Game」 、「Urban Dance」をリリースするものの、パーラ/ファンカ名義でのアルバムのリリースはなくなってしまう。

ところが、クリントンは89年プリンスのペイズリーパークからリリースした「シンデレラ・セオリー」を機に再びファンク大使として勢いを取り戻すようになる。パブリック・エナミーなどの参加、サンプリング、スクラッチを活用したサウンドが、新たなファンクの進むべき道を記したのである。その後、ゲイリー・シェイダー、エディ・ヘイゼル、マイケル・ハンプトンらがクリントンの元に戻り、Pファンク・オールスターズとしてライブ活動を再開。その影には“ニー・ディープ”を使った“ミー・マイセルフ・アンド・アイ”をヒットさせたデ・ラ・ソウルなどヒップホップ・アーティスト達によるサンプリングのおかげであったかも知れない。

92年、オリジナル・ファンカデリックのエディ・ヘイゼルが亡くなるという悲劇はあったものの、クリントンの息子達の活躍もありファンクの血は脈々と受け継がれている。そして95年、パーラメントでは80年の「Trombipulation」、ファンカデリックでは81年の「The Electric…」以来10年ぶりのニューアルバム「ドープ・ドッグス」をパーラメント/ファンカデリック名義でリリースし、ブラック・バードが亡くなったエディ・ヘイゼルの代わりを務めた。クリントンの孫娘パタ・ヴィアンとのラップやラキムダディ・フレディなど若い世代のアーティストとの共演など、まだまだPファンクの勢いは止まることを知らない。

reference:レコード・コレクターズ増刊『ソウル&ファンク』

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